VERDA GEMO 2024 vintro n-ro 7 JABUKI Cutomu 要約(Resumo en la japana):12月はイベントが盛りだくさんの月です。 Saitama Esperanto-Rondo okazigas du regulajn retkunvenojn en ĉiu monato. Ĉiam ni faras kutiman menuon de esperanto-lernado: babilado en Esperanto, legado de lernmaterialo kaj diskuto pri ties enhavo. Dume, en lasta decembro ni okazigis tri specialajn eventojn en la du tagoj. En la 9a […]
Aŭtoro: jabuki
Mia rompita dento
VERDA GEMO 2023 aŭtuno n-ro 6 Tutamo 【要約(Resumo en la japana)】前歯が欠けた。悲しい。怖い歯医者に行かねばならないのが悲しい。 Kelkajn monatojn antaŭe mia fronta dento rompiĝis. Probable, miaj dentoj ne viciĝas bele ordaj kaj la dento estis maldikiĝinta pro denta frotado dum longa tempo, mi pensas. Pro la dento mia vizaĝo fariĝis pli amuza ol kutime. Miaj familianoj eksplodis per unu vido. De […]
VERDA GEMO 2023 aŭtuno n-ro 6 Go 【要約(Resumo en la japana)】夏の間はみょうがを収穫します。 Ĉu vi ŝatas miogon? Ni ŝatas miogon.Dum la somero ni rikoltas miogon en nia ĝardeno. Ni manĝas nudelojn kun miogo. Kelkfoje ni aldonas miogon al salato.Ni nur manĝas burĝonojn de la planto miogo. Ni neniam manĝis tigon de miogo.Ĉu vi scias kiel manĝi tigon […]
VERDA GEMO 2023 aŭtuno n-ro 6 OHNISHI Masayuki 【要約(Resumo en la japana)】エスペラントをはじめる前にわたしがしていた自然保護活動について。 Mi estas montoamanto. Kiam mi estis mezlernejano, la lernejo okazigis someran kunloĝadon en NOBEJAMA, proksime de Esperanto-domo de Jacugatake. Ni grimpis monton sub la gvido de la instruistoj. Ekde tiam ĝis nun, mi grimpis multajn montojn aŭ promenis en montara regiono. Kiam mi […]
長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その5
VERDA GEMO 2023 somero n-ro 5 その1 その2 その3 その4 その5 その6 Sanjo 1980年代後半は、外国からのエスぺランティストがたくさん我が家にやってきた。子どもたちはまだ小さくて、お客が外国人だろうが日本人だろうが気にしなかった。ちょっとしたあいさつくらいはエスペラントで言ったかもしれない。 エスペラントの世界大会(UK)には、Infana Kongreseto「子ども大会」と呼ばれる行事がある。親たちが世界大会に参加している間、こどもたちは別の場所で1週間、親と離れて過ごす。1989年、イギリスのブライトンで世界大会があったとき、無謀にもInfana Kongresetoに申し込んだ。ふたり一緒だし、どうにかなるだろうと簡単に考えていた。結局、この年の初めに私の父の具合がかなり悪くなり、イギリス行きはキャンセルせざるを得なくなった。ほとんどエスペラントがわからない7歳と5歳のこどもたちを参加させるなど、現在ならとても考えられないし、受け入れる側も困っただろう。父はその年の暮れに亡くなった。 その間も外国人エスぺランティストの受入れは続けていた。その中に、フィンランド人のペッカさんがいた。彼はわたしたちにぜひフィンランドにいらっしゃい、と言ってくれたので、1991年夏にタンペレの彼の家を家族みんなで訪ねた。エスペラントを使っての初めての海外旅行だった。フィンランド第2の都市であるタンペレでは、1995年にUKが開催されたのだが、エスペラント活動は活発だったようだ。5,6日お世話になって、あちこち連れて行っていただいたのだが、本物のサウナ、ムーミン谷博物館など、楽しかった。この頃、ケータイ電話が非常に普及してきて、ノキアの製品もけっこう目にする機会も多かったのだが、タンペレで遠目にノキアの工場を目にして、さすがと感心したものだ。 タンペレの後、ヘルシンキではたまたま転勤でそこに住んでいた娘のクラスメートのご家族の家にお世話になったのだが、ヘルシンキの町を歩いていて、偶然緑の★のバッジをつけた人とすれ違い、思わず声をかけた。その人は、ノルウェーのベルゲンでのUKに行く途中にヘルシンキに立ち寄ったそうだが、ちょっと驚いた。フィンランドからさらにロンドンへ行ったのだが、そこではエスペラントとは縁のない1週間を過ごした。今思うと残念ではあるが。 この年、1991年というのは、ソ連邦が崩壊した歴史的な年である。私たちの飛行機は、モスクワ乗り換えのヘルシンキ行きだったが、モスクワで1泊しなければならなかった。この便には、偶然にもベルゲンのUKに向かう埼玉の小林歌子さんが乗っていた。彼女は当時すでに定年退職していたはずだが、ひとりで行動する、自立したエスぺランティストだった。ソ連の悪口を言うつもりはないが、ホテルはひどかった。空港も。ソ連国内の政治状況はガタガタしていて、わたしたちがモスクワ経由で帰国してから間もなくして、ゴルバチョフ大統領が打倒され、その年末にはソ連邦は解体された。わたしたちの帰国がもう少し遅かったら、トラブルに巻き込まれたかもしれないと思うと、今さらながらラッキーだったと思う。小さな子ども連れでは、何をするにも大変な上に、モスクワに知っているエスぺランティストはいなかった。街中で偶然にエスぺランティストに出会うということだってそうあることではないが、この旅では2度あったことになる。 ホテルも空港も酷い状態ではあったが、モスクワでの唯一のいい思い出は、朝の食堂で食べたゆで卵。サイコーにおいしかった!前日夕から何も食べていなかったからだと思うが、今でも家族全員がこの件では意見が一致している。 (続く)
挨 拶 考
VERDA GEMO 2023 somero n-ro 5 石川尚志 若い頃北欧系の会社に勤めていて、そこには何人かのスウェーデン人がいた。普段は仕事上の接触ばかりだが、時には社内のパーティーなどで仕事を離れた話をすることがあった。あるとき日本に長く住んでいる技術系のG氏が、そういう席で私に問いかけてきた。 日本語の「さようなら」という挨拶は実際どういう意味か知っているかというのだ。私は「左様ならば、これにてお別れします」とか「左様しからば、これにて御免」の後半が省略されたものだ、と答えた。会話は英語だったから“If so, I will leave.”の略と答えたのだ。G氏はにやりと笑って「よく知っているな。自分が聞いた日本人の多くは答えられなかったぞ」と言った。 最近そのことを思い出して、改めていろいろな言語の挨拶について考えてみた。挨拶というものはどの言語でも短く、大体は何かが省略されている。省略できるのは、互いになにが省略されているかわかっているからだ。その省略の仕方が言語によってどう違うか、どんな特徴があるか、考えた。 まず身近な英語だ。Goodbye (Goodby)は、God be with you(ye).の短縮形だが、その後ろのtill we meet againが略されているという。讃美歌に“God be with you till we meet again.”とあり和訳では「また会う日まで、かみのまもり汝が身を離れざれ」となっている。さらに言えば、冒頭のI wishも省略されているので、真ん中だけが表現されている形である。 では、我らのエスペラントはどうか。別れの挨拶の定番は、“Ĝis revido!”である。まさにtill we meet againである。また会う日までどうしろというのか。キリスト者ならDio estu kun vi かもしれないし、無神論者ならFartu bone!でもいいだろう。仏語のAu revoir!も独語のAuf Wiedersehen!も同じだろう。 「今日は」、「今晩は」は「良い天気ですね…」などが略されていると考えられ「おはよう」は「朝早くから精が出ますね」とか「お互いに早いですね」などが背景にある。一方で、エス語は“Bonan tagon”、“Bonan nokton”のように目的格なので”Havu bonan tagon.”とか”Mi esperas al vi bonan nokton”のように他動詞が隠れている。英語のGood morninigは格が判らないが独語ではGuten morgenのように目的格なので同じと考えてよいだろう。 以上を一般化して考察すると、日本語でも外国語でもます、相手方に対して「事態、状況の確認、共有」の呼びかけがあり、それを踏まえて話者の「意志、希望」を述べるのだが、どちらかが略される。「左様なら」「こんにちは」「おはよう」は典型的に状況の確認であって、その後の「帰る」、「元気でいて」などは省略されるというより、もはや意識されないのだ。ところが英語では、状況は後景に退き、話者の相手に対する意思、希望がGod […]
Kiu estas dio de malvenko? (2/2)
VERDA GEMO 2023 somero n-ro 5 Tutamo Antaŭa rakonto (1/2) 【要約(Resumo en la japana)】私は家族からの疫病神のレッテルを消すことができるのか? En la 13a de julio, mi iris spekti basbalan matĉon inter Carp kaj Giants en Tokyo Dome kun mia edzino kaj mia filino. En la lasta surloka spektado kun kvar miaj familianoj en la ora semajno, nia favorata teamo Carp malvenkis. […]
Kiu estas dio de malvenko? (1/2)
VERDA GEMO 2023 somero n-ro 5 Tutamo 【要約(Resumo en la japana)】ここ数年家族で野球観戦にいくといつも負け試合。一体誰が疫病神なのか? En Japanio, oni nomas sinsekvajn feriojn de la fino de aprilo ĝis la komenco de majo ora semajno. Mi iris al Tokyo Dome por spekti basbalan matĉon en la unua tago de ora semajno kun mia familio. Tokyo Dome estas grandega basbalejo kun tegmento […]
VERDA GEMO 2023 somero n-ro 5 JABUKI Cutomu 【要約(Resumo en la japana)】7月1-2日に八ヶ岳エスペラント館へ合宿に行ってきました。現地とオンラインとで10名が参加して夏季総会・プレゼン・学習会などを行いました。二日に亘って楽しい時間を過ごしました。 Antaŭ eksplodo de novtipa kronviruso, en nia rondo ofte aperis la deziro, ke ni kunloĝu en Esperanto-Domo de Yatugatake. La domo situas en la urbo Hokuto, Yamanasi, kien ni povas atingi aŭte en ĉirkaŭ 3 horoj de Saitama. En tiu tempo, escepte de […]
長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その4
VERDA GEMO 2023 printempo n-ro 4 その1 その2 その3 その4 その5 その6 Sanjo 1977年末に結婚し、千葉市で新生活を始めたが、通勤にとても時間がかかることから、1年足らずで東京荒川区の南千住に転居した。池袋エスペラント会に通うにもとても便利で、その3に書いたように、外国人エスぺランティストへの宿泊提供も何度かした。 ところが、転居後ほどなくして尚志が体調を崩し、入院することになったのだが、運よく池袋エスペラント会の仲間が働いている永寿病院(KOVIM-19が流行った最初の頃、院内クラスターで有名になった)が近くだったので、そこに入院した。その後も2,3度入院することになったのだが、病院に仲間がいるということで、何となく安心できた。エスペラント界は決して大きくはないが、いろんなところにいろんな人材がいて、何かのときには心強い。あらゆる職業の仲間がいると言っても過言ではないかもしれない。 この頃、エスペラント全国合宿がさかんに行われ、焼津青少年の家での合宿は参加者が100人以上にもなる大きなイベントだった。私は結婚直後に一度参加したきりだが、若い参加者がたくさんいて、とても楽しく有意義な学習の場でもあったようだ。今ではちょっと想像できないかもしれないが。 1982年3月に長女が生まれた。南千住は便利ではあったが、子育てにはあまり環境がよくないと思い、1983年夏に埼玉県の志木市に転居した。1984年2月には長男も誕生したので、それ以降は子育てに追われる日々となり、池袋エスペラント会に参加することはなくなったが、エスペラントを止めたわけではなかった。JEI会員は続けていたが、機関誌を読むヒマはなかった。 1985年は、国連が定めた「国際婦人年」(1975年)が拡大されて10年目にあたり、ケニアのナイロビで世界女性会議が開催された。女性の地位向上を目指して国連が設けた「国際婦人年」とエスペラントに直接の関係はない。しかし、この会議に志木のお隣の新座市の女性職員が参加したことから、この地域でのエスペラント活動が始まった。なぜエスペラントだったのかは残念ながら聞く機会はなかったのだが、その女性職員が、働く女性も参加できるようにと公民館で夜の講座をいくつか設けた中の1つがエスペラント入門講座だった。講師をどなたにお願いするか、今となっては推測の域を出ないが、もしかしたらJEIに相談したのかもしれない。講師は梅田節子さんだった。入門講座の講師としてはうってつけだった。講座を提案した職員も一緒にエスペラントを学んだという。この講座終了後、エスペラントを続けたいという人が集まって、新座市の野火止公民館に「ステリードイStelidoj」というグループができた。 私は私で同じ頃、住んでいた志木ニュータウンの集会所で小規模な「エスペラント展」を開いたところ、エスペラントをやってみたいという近所の女性が現れ、3,4人で学習会を始めた。グループ名を「grupo ‘88」とつけて、我が家で毎週のようにおしゃべり+エスペラント学習を楽しんだ。Stelidojの例会には参加できなかったが、イベントへのお誘いには参加したり、梅田さんを通じて、外国人エスぺランティストの受入れは続けていた。この頃受け入れたエスぺランティストで思い出に残っているのは、Hortensioと呼ばれた韓国のチェ・ユンヒさんとか、父がアメリカ人で母が韓国人の、当時天才少女といわれた12歳くらいのサラ・ジョーンズ。彼女は、バイオリンの演奏でもすでに一流で、中国科学院への招待旅行の途中に日本に寄ったと記憶している。他にも、ソ連(当時)の言語学者、世界一周旅行中の フランス人夫妻、スウェーデンの若者カップルなど、たくさんのエスぺランティストを迎えたお陰で、会話力はキープすることができた。(続く) (続く)