2026.04.18 石川尚志 はじめに これからしばらく、この埼玉エスペラント会のサイトを借りて、中動態についての考察を発表していきたい。態というのは動詞の活用形式で、動詞の表す行為をどういう観点から見るかによって区別される。行為者の側から見るか、行為の対象の側からか、あるいは全体を現象として見るかの違いである。その態のひとつである中動態(medialo,mediala voĉo)の役割と意義を解明し、さらに広い歴史的パースペクティヴの中で検討することにより、インドヨーロッパ語(印欧語)の古典語に広く見られた中動態の消失が今日の西欧の諸言語のありかたとどうかかわるのかを考えることである。その作業を日本語とエスペラントにおける中動態の比較・対照から始める。 なぜ日本語とエスペラントなのか。私見によれば現代の言語のなかで中動態が大きな役割をはたしているのがこれら二つの言語であるということが一つ。さらに、中動態は古い時代の印欧諸語が有していた態であるとされるなかで、印欧語との系統・類縁関係がほとんどない日本語とエスペラントという離れた位置から中動態を照射してみたいのである。日本語は、ユーラシアの東端に位置する孤立的な言語で印欧語の影響を受けていないにもかかわらず、中動態を保持していると考えられる。一方エスペラントは一個人の創作した計画言語であるが、素材の多くを印欧諸語から得ているうえに、文法構造の透明性が高く、慣用表現が少なく、中動態の本質も見えやすいと考えられる。 本稿のタイトル「冒険」について説明しておこう。私はそこに二重の意味を込めた。第一に、言語学者(日本語話者、エスペラント話者にさえ)に誤解され無視されている中動態に光を当て表舞台に引き揚げ、存分に活躍・冒険してもらいたいという願い。さらには西欧の支配的言語の文法構造が近代文明の根底にある哲学=人間中心主義の世界観をどのように支えているかを考えてみたい、という大それた冒険である。 本稿は金谷武洋氏や国分功一郎氏など多くの言語学者や哲学者の著作に学んで援用しているが、もとより私は、言語学や哲学の専門的な訓練を受けていない素人であり、各種文献の解釈や引用についても誤読や曲解があると思われるので、読者諸氏は忌憚のない疑問、質問、批判をお寄せ願いたい。詩人片桐ユズル氏に「専門家は保守的だ」という詩集があるが、私は素人の特権を駆使して専門家が避けていると思われる中動態論そのもの、さらに近代言語の問題性についての大胆な問題提起をおこなうつもりである。読者の方々が私の意図をくみ取って解決の方向を提示して下されば嬉しい限りである。以下では、引用する方々の敬称は略させていただく。 1. 中動態とはなにか ― 日本語とエスペラント 早速、中動態の説明に入るが、実は日本語話者やエスペランティストは、文法用語としての中動態(medialia voĉo, medialo)を知らなくても、中動態の表現を日常的に使っているのである。もし、中動態動詞の使用を禁止したら、日本人もエス語話者もパニックに陥るだろう。それだけ、この二つの言語における中動態の存在と働きは大きいのだが、それは殆ど気づかれていない。 とりあえず中動態の具体的な働きを見てみよう。最初の例は、ありふれた会話である。jは日本、eはエスペラントを意味する。エスペラントはエス語と表記することもある。 外出から帰った母親に太郎が話しかける。 (1-j) 太郎:お母ちゃん、コップが壊れたよ。(1-e) Taro: Panjo, glaso rompiĝis. (2-j) 母親:あらほんと? で、だれが壊したの?あんた?花子?それとも猫?(2-e) Patrino: Ĉu vere? Do, kiu rompis ĝin? Vi? Hanako? Aŭ la kato? 学校で花子が、教師に宿題をやってこなかった理由を告げる。 (3-j) 花子:宿題の用紙が無くなったんです。(3-e) Hanako: La papero de hejmtasko perdiĝis. (4-j) 教師:その言い方は正しくない。「用紙を無くしました」と言いなさい。(4-e) Instruisto: Tiu dirmaniero estas malĝusta. Diru,“Mi perdis la […]
Kategorio: 寄稿
グローバル化とエスペラント
2021.01.13 石川尚志 エスペラントは誕生の直後からさまざまな批判、非難、中傷、嘲笑、誤解、曲解、無視、敵視、敵対、迫害を経験してきた。ナチズムとスターリニズム体制下の弾圧は死をも伴ったように、それぞれの時代に特徴的な反エスペラント活動が見られる。言語学者による中傷、批判も後を絶たない。月刊誌Monatoでも昨年、欧米やニュージーランドの言語学者たちによるエスペラントについての無理解の例が取り上げられた1。また、次のような例も紹介されている。フランスのラジオ放送に子供の質問に専門家が答える番組があり、そこで取り上げるテーマには三つタブーがある。神、性行為そしてエスペラントだと。 言語学者による反エスペラント論も時代を反映する。昨年刊行の立川健二『言語の復権のために ? ソシュール、イェルムスレウ、ザメンホフ』2は、「愛の言語思想家、ザメンホフ — 言語差別を超えて」という章を設けエスペラントとザメンホフ思想を扱っている。彼の結論は、ザメンホフの思想は素晴らしい、だけど、国際語は英語だよね、というものだ。「全般的な情報量の点では、英語の力を磨いたほうが、どれだけ有利かわからない。」3だからエスペランティストは、言語としてのエスペラントに拘泥せず、ザメンホフ思想を堅持して英語を国際語として駆使せよ、というご託宣である。「エスペラントからザメンホフへ」4そして英語へ、というわけだ。 さて、昨年暮れに創刊された英語雑誌“esperanto”をめぐる問題であるが、これについても私は、反エスペラント主義の現代的な発現であり、立川の論と軌を一にしていると考える。現代世界の特徴は、グローバル化であり、人、物、金、情報が国境を超えて自由に移動する世界である。またこの過程は世界の資本主義化であって、人、物、金、情報が移動する原動力は資本の力である。ここではあらゆるものが資本によって商品化される。公共物であった水が金融商品として投機の対象となるし、文化も例外ではない。さらにグローバル化を支えているのが支配的言語としての英語であり、グローバル化は世界の英語化でもある。 かつて英語は、国際語 (lingua franca) の地位をフランス語と争い、経済力、軍事力、文化力を背景に勝ち取った。フランス語は一方で英語と争いつつ、新たに「国際語」として登場したエスペラントに敵愾心を燃やした。1920年代に国際連盟で新渡戸稲造などによってエスペラントの教育への導入が提起されたとき、哲学者ベルグソンを先頭に最も強く反対したのがフランスだったことはよく知られている。また、英国のちに米国が、世界で政治的・経済的覇権を確立する過程で、いかにマイナーな言語を抑圧しその話者の言語的人権を奪ってきたかも知られている。 今日も世界の英語化は進行しているが、かつてのような軍事力、政治的強制力を必要としない。資本主義化と手を携えているからだ。そこが漢語を少数民族に強制している中国との発展段階の違いである。覇権を狙う中国の漢語は、国際語たるには難しすぎてライバルになりえない。英語は勝者の余裕で、少数言語話者の言語権に寛大になれるはずだ。 以上の時代背景を考慮しながら英語雑誌“esperanto”を考察してみると、まず面白いというか、皮肉と言えるのは、「英語帝国主義圏」の最も弱い環とも見える日本から英語雑誌が世界へ向けて刊行されたことだ。もっともタニヒロユキによれば、「文化や言語のグローバル化とは、ヘゲモニーの中心をもつ文化帝国主義・言語帝国主義が全世界化して中心がなくなること」5らしいから、日本発世界向け英語雑誌は奇異な現象ではないのだ。 この雑誌にとってタイトルのesperantoは大きな意味は持たないと思われる。内容はエスペラントと無関係であり、編集者の主観の中で、ザメンホフ思想と言語のエスペラントを切り離し、ザメンホフを単なるコスモポリタンの平和主義者とし、言語からもその名称エスペラントをはぎ取ってメタファーとして英語雑誌の名前に用いるというようなお手軽な手法は読者に対して訴求力をもたないだろう。“esperanto”は言語名であるから商標登録はできないので、次善の策として“esperanto culture magazine”を日英で登録出願したと見える。彼らにとっては雑誌創刊、販売政策上の常套手段であろうが、エスペラントにとっては、重大問題である。これは言語、その文化の解体と商品化、囲い込みであり、出版社、編集者の主観、善意・悪意などを超えた英語文化による侵襲であり、少数言語とその文化に対する挑戦といってよい。文化、芸術に関わる者に望まれる少数言語、言語権に対する配慮が全く欠けている。英語による世界制覇を前提にエスペラントを死せる運動、化石とみなし、ザメンホフとエスペラントを商品化し、意匠化し、消費する現代の市場万能主義のなかの反エスペラント主義の一形態なのである。6 この雑誌に対して多くのエスペランティストが当惑し、怒るのは当然であり、可能な限りの手段を用いて誌名を変えさせるという運動が必要だろう。エスペランティストの一部に雑誌社に迎合して、宣伝効果を期待する向きがあるがとんでもない話である。不正競争防止法という法律は、商標登録がなくても長年使用されてよく知られたブランド名や商品名を保護している。かつてフランスのシャネルグループが日本の歌謡スナックシャネルを訴えてその名称の使用を差し止め、損害賠償を勝ち取った。シャネル社は、スナックが自分の名前を使ってくれることで宣伝になると喜んだりはせず、自己の権利を守るために戦った。当然である。この雑誌にエスペラント訳を載せてもよい、という提案を喜んで受け入れる人たちは、大英(語)帝国に武力制圧されたのち、辺境で領土の保有を認められて喜ぶ土侯と同じだろう。 雑誌社が商標出願した「エスペラントカルチャーマガジン」主催のイベントに行ってみて、Saluton!と挨拶したら、けげんな顔をされ Speak English!と返された、というような漫画チックな事態も起きないとは限らない。 タニヒロユキは、元UEA会長のケプ・エンダビーの発言を引用する、「….エスペラントはそれ自体が政治的存在であることが明らかである。言語とは政治的に機能せざるをえない存在だからだ。エスペラントのために活動することは言語権のために活動することである。言語権は基本的人権の一つであって、人権のためにたたかうことは政治的行為である。」 (Esperanto誌、1998/9,p.151)7 私たちエスぺランティストが、エスペラントの言語権のためにたたかうことは当然である。たたかうといっても、まず相手の無理解、行き過ぎを指摘し、啓蒙に努め、誌名の変更、商標出願を取り下げを求めることであるが、必要に応じて異議申し立て等の法律的手段に訴えることも視野にいれなければならない。 今日英語が大きな力を持ち、国際的な仕事をするための英語の必要性を否定するエスペランティストはいないだろう。私自身、外資と日本の会社で長年働き、英語で飯を食ってきたといってよい。英語の力は良く知っており、英語で情報を集め、英語の本を読むことの喜びも知っている。また、英語を使わなければならない日本人の悲哀も経験した。そのうえでザメンホフの理想を掲げてエスペラントを使うというのが私の立場であり、また多くのエスペランティストの立場であろう。 注1. Monato, 2020/08-09,10,12, Flandra Esperanto-Ligo 2. 立川健二『言語の復権のために』論創社、2020年 3. 同書p.256 4. 同書p.262 5. タニヒロユキ『エスペラントとグローバル化』日本エスペラント図書刊行会、2003年、p.121 6. 現代資本主義におけるあらゆるものの商品化、市場万能主義については斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社、2020年、白井聡『武器としての資本論』東洋経済、2020年などを参照のこと 7. タニヒロユキ「エスペラントと言語権 – 二つの接点」言語権研究会編、『ことばへの権利 言語権とはなにか』所収、三元社、1999年