はじめに
1. 中動態とはなにか ― 日本語とエスペラント
2. 中動態とはなにか ― 文法から
3. 日本語の動詞とエスペラントの動詞
はじめに
これからしばらく、この埼玉エスペラント会のサイトを借りて、中動態についての考察を発表していきたい。態というのは動詞の活用形式で、動詞の表す行為をどういう観点から見るかによって区別される。行為者の側から見るか、行為の対象の側からか、あるいは全体を現象として見るかの違いである。その態のひとつである中動態(medialo,mediala voĉo)の役割と意義を解明し、さらに広い歴史的パースペクティヴの中で検討することにより、インドヨーロッパ語(印欧語)の古典語に広く見られた中動態の消失が今日の西欧の諸言語のありかたとどうかかわるのかを考えることである。その作業を日本語とエスペラントにおける中動態の比較・対照から始める。
なぜ日本語とエスペラントなのか。私見によれば現代の言語のなかで中動態が大きな役割をはたしているのがこれら二つの言語であるということが一つ。さらに、中動態は古い時代の印欧諸語が有していた態であるとされるなかで、印欧語との系統・類縁関係がほとんどない日本語とエスペラントという離れた位置から中動態を照射してみたいのである。日本語は、ユーラシアの東端に位置する孤立的な言語で印欧語の影響を受けていないにもかかわらず、中動態を保持していると考えられる。一方エスペラントは一個人の創作した計画言語であるが、素材の多くを印欧諸語から得ているうえに、文法構造の透明性が高く、慣用表現が少なく、中動態の本質も見えやすいと考えられる。
本稿のタイトル「冒険」について説明しておこう。私はそこに二重の意味を込めた。第一に、言語学者(日本語話者、エスペラント話者にさえ)に誤解され無視されている中動態に光を当て表舞台に引き揚げ、存分に活躍・冒険してもらいたいという願い。さらには西欧の支配的言語の文法構造が近代文明の根底にある哲学=人間中心主義の世界観をどのように支えているかを考えてみたい、という大それた冒険である。
本稿は金谷武洋氏や國分功一郎氏など多くの言語学者や哲学者の著作に学んで援用しているが、もとより私は、言語学や哲学の専門的な訓練を受けていない素人であり、各種文献の解釈や引用についても誤読や曲解があると思われるので、読者諸氏は忌憚のない疑問、質問、批判をお寄せ願いたい。意味論の研究者で詩人の片桐ユズル氏に「専門家は保守的だ」という詩集があるが、私は素人の特権を駆使して専門家が避けていると思われる中動態論そのもの、さらに近代言語の問題性についての大胆な問題提起をおこなうつもりである。読者の方々が私の意図をくみ取って解決の方向を提示して下されば嬉しい限りである。以下では、引用する方々の敬称は略させていただく。
1. 中動態とはなにか ― 日本語とエスペラント
早速、中動態の説明に入るが、実は日本語話者やエスペランティストは、文法用語としての中動態(medialia voĉo, medialo)を知らなくても、中動態の表現を日常的に使っているのである。もし、中動態動詞の使用を禁止したら、日本人もエス語話者もパニックに陥るだろう。それだけ、この二つの言語における中動態の存在と働きは大きいのだが、それは殆ど気づかれていない。
とりあえず中動態の具体的な働きを見てみよう。最初の例は、ありふれた会話である。jは日本、eはエスペラントを意味する。エスペラントはエス語と表記することもある。
外出から帰った母親に太郎が話しかける。
(1-j) 太郎:お母ちゃん、コップが壊れたよ。
(1-e) Taro: Panjo, glaso rompiĝis.
(2-j) 母親:あらほんと? で、だれが壊したの?あんた?花子?それとも猫?
(2-e) Patrino: Ĉu vere? Do, kiu rompis ĝin? Vi? Hanako? Aŭ la kato?
学校で花子が、教師に宿題をやってこなかった理由を告げる。
(3-j) 花子:宿題の用紙が無くなったんです。
(3-e) Hanako: La papero de hejmtasko perdiĝis.
(4-j) 教師:その言い方は正しくない。「用紙を無くしました」と言いなさい。
(4-e) Instruisto: Tiu dirmaniero estas malĝusta. Diru,“Mi perdis la paperon.”
子供の言い方と大人の言い方はだいぶ違う。これを単に子供じみた言い訳の語法と大人の正しい語法の対立と決めつけないでほしい(そういう面はあるが)。子供たちが使っている動詞の用法は文法的には中動態であり、大人のそれは能動態である。
ここで中動態と能動態の違いを簡単に定義しておこう。根拠や伝統的な定義との対比などの詳細な議論はのちに行う。
能動態:行為を表す ― 誰かが何かをする
中動態:出来事を表す ― 何かが起こる、状況が変化する
具体例で説明しよう。
(5) Taro laboris en Tokio. 太郎が東京で働いた。 能動態
(6) Taro naskiĝis en Tokio. 太郎が東京で生まれた。 中動態
(5)(6)におけるエス文も日本文も、みな自動詞に補語が付いた単純な構文である。しかし両者は決定的に違う。(5)の文における主語、Taro/太郎は動詞の動作主であるが、(6)文の主語、Taro/太郎は動作主ではない。中動態においては、主語は見かけ上のものであり出来事が起こる場所(座)を示すにすぎない。太郎は自らの意志に基づく行為によって生まれてきたのではなく、太郎が生まれるという出来事、状況が生じたのである。
さらに中動態の具体例をみていこう。イタリック体のエスペラント動詞、下線を施した日本語動詞が中動態である。
(7) Pepado de birdetoj aŭdiĝas. 小鳥のさえずりが聞こえる。
(8) De la ponto Mt.Fuĵi vidiĝas. 橋から富士山が見える。
(9) Ankaŭ sen kokoj mateniĝas. 鶏がいなくても朝になる。
(10) Mia pasporto nuliĝis. パスポートが失効した。
いずれの例も行為を表す文ではなく、出来事、状況の変化を表している。主語は行為主体ではない。(7)(8)は私が毎朝体験することで、窓を開けると小鳥の声が飛び込んでくる。私が聞こうとしているのでも、鳥が聞かせようとしているのでもない。散歩に出て橋の上に来ると西の方角、木々の上に富士山が姿を現す。見ようとして見るのでもなく、富士が自分を見せるのでも、見られるのでもない。富士がある光景が開けるのだ。また、(9)には主語さえないが、自然の変化を表現している。
今までに挙げた例は比較的簡単な文で単純な事象を表しているが、もっと複雑で抽象的な例を示そう。エスペラントの歴史に関する基本文献と見なされるUlrich Lins, La Danĝera Lingvo, Rotterdam 2016からの引用である。本書については、私と仲間のエスペランティストが2025年の9月に訳書『危険な言語』を刊行している。訳書の該当ページも示すが、訳語の一部はここでは中動態を強調するため直訳にしている。
1936年のソ連で、ヴォロネージュという男は著名作家M.ゴリキーに僭越な手紙を書いたとして投獄された。原書p.271、訳書p.283.
(11) En septembro de la kuranta jaro mi liberiĝis kaj revenis hejmen.
その九月に自由の身になり、家へ戻った。
主人公は自らの行為で出獄したのではない。かれにとっては投獄も出獄も降りかかった出来事である。この部分は英語訳ではI was freed.となっている。受け身でしか訳せないが、エスペラントでは受動態でも中動態でも表現でき、表現の幅が広い。
さらに同書のp.219(訳書p.228,229)は、1930年代以降にソ連で大きな影響力を持った言語学者マルMarrとその理論について述べているが、7個の中動態表現が現れる。
(12) …Marr prezentiĝis kiel pli senkompromisa kontraŭulo de la malnova, burĝa lingvoscienco.
…マルは、旧来のブルジョア言語科学に対する容赦ない批判者として現れた。
(13) En la jaroj 1931/32 montriĝis, ke la pozicio de Marr estis malfortigebla…per ….
1931/32年にかけてマルの立場は、…によっても弱めることができないことが明らかになった。
(15) …la…karaktero de lia teorio akordiĝis kun la intencoj de Stalin.
…彼の理論の性格がスターリンの意向に合っていた。
(16) Ju pli intense oni diskutis pri la vojo al la universala lingvo,des pli minacis sentiĝi la kontraŭdiroj regantaj inter teorio kaj pratiko.普遍言語に至る道程について議論すればするほど、理論と実践の間の矛盾が感じられる恐れが深まる。
(17) .., se la konturoj forviŝiĝis, t.e. se la “socialisma enhavo” pleniĝis per naciaj simboloj.
「社会主義的内容」が民族的シンボルで満ちて、輪郭が消えてくると、
(18) Ĝuste tia evoluo kristaliĝis ekde la fino de 1931.
まさにそのような展開が1931年末から現実化した。
(12)はMarrが主語ではあるが、彼が行為をしているのではなく、他人の眼にそう映ったということだ。(13)はke以下が主部で(14)~(18)はすべて抽象的概念が擬人的に主語になっているが、いずれも行為主体ではなく、出来事が起こる場を示しているだけである。
以上、私なりの定義に基づく日本語とエスペラントにおける中動態の具体例を見てきたので、ある程度のイメージはつかめたと思う。自然言語である日本語と計画言語エスペラントは、生成・発展の系譜の上ではまったく関係がない。にもかかわらず両言語のあいだではパラレルに対応する中動態が見られる。これはなぜなのか。さらに上に見た中動態なるものは、言語学者の間で論じられている中動態そのものなのかを検証する必要があるだろう。まず、とりあえず日本語版ウィキペディアを覗いてみよう。そこではかなり専門的な記述がなされており、フォローするのは大変だが、最小限にまとめると、中動態とは、
動詞の表す行為が、その行為者から出発して、その行為者に戻ってくる場合(再帰形態、reflexive)をいい、現代のインド・ヨーロッパ語(印欧語)のもとになった印欧祖語には、能動態と中動態があり、中動態は受動の意味も示していて受動態はそこから生じたといわれている。古代のヒッタイト語、サンスクリット、ギリシャ語、ラテン語には変化しつつ存在し、現代ヨーロッパでは、ギリシャ語、アルバニア語、アイスランド語、スウェーデン語など少数に残存する。再帰動詞のような動詞の形態が生じるのは、印欧語のような主語を表す言語においてであり、日本語のような主語を必ずしも表わさない言語には中動態は生じない。
おやおや、中動態なんて古代の印欧語の世界のお話しで、日本語には存在しないというではないか。エス語については、当然のように何の言及もない。しかし、上記のような見解は言語学界の通説と見なしてよいだろう。そこでわれわれの課題は、さきに示した一応の定義とそれによって説明してきた中動態の実例と、言語界の通説とどう折り合いをつけるか、今後見てゆくいくつかの理論のいずれが先に示した実例を合理的に説明できるか、見極めることである。
2026.04.18
2. 中動態とはなにか ― 文法から
まず最初にエスペラント文法における中動態を見てみよう。古典語を除く文法書の中で、中動態を能動態、受動態などと並び現に機能しているものとして対等に扱っているのはエスペラントくらいだろう。エスペラント文法書のなかで最も詳細で権威があるとされるカロチャイ(K. Kalocsay)、 ヴァランギャン(G. Waringhien)の Plena Analiza Gramatiko de Esperanto 1980 (『エスペラント文法大全』略称PAG)によれば動詞には4種類のvoĉo(態)がある。aktivo(能動態)、pasivo(受動態)、faktitivo(使役態)、medialo (中動態)である。能動態は、主体によって引き起こされる行為または状態を表し、受動態は、他者によってなされて主体が影響を被る行為を、使役態は、主体によって他者がさせられる行為を表す。そして中動態は、-iĝ (自動詞語尾)で表され、それ自身のうちに能動と受動を併せ持ち、主語が同時に行為の目的語であって、主語はそれ自身に対して行為を行う《P.133、166》。
この中動態についての説明は、1. のウィキペディアの説明で見たような、欧米の言語学者が印欧語について伝統的に行ってきた説明を踏襲している。A. シェルピヨ(A. Cherpillod)、M. マロヴェツ(M. Malovec)のようなエス語文法家もPAGに全面的に依拠していてなんら新味はない。ヴェンナーグレン(B. Wennergren)のPlena Manlibro de Esperanta Gramatiko 2005((『エスペラント文法詳解ハンドブック』PMEG)は、中動態という用語を用いず、IĜ-verboj faritaj el objektaj verboj((目的語をとる動詞から作られるIĜ動詞)として説明しているが、理解は同じである。
さらにPAGは、中動態の主語は目的語でもあるので動詞の再帰形に似るがその違いは、再帰形が意識的な行為であるのに対して中動態は無意識の行為であるという。例として、Li ĵetis sin vizaĝaltere.(彼はうつぶせに倒れこんだ、意識的 – 再帰、Li iom ĵetiĝis malantaŭen.(彼はうつぶせに倒れた、無意識的 – 中動)を挙げるが、あくまで中動態の主語を行為者としてとらえているので、akre desegniĝas la konturo de domo(くっきりと家の輪郭が描き出されている)や troviĝas multaj birdoj (沢山の鳥が見つかる – いる)などを主語の行為として説明できず、論理的ではないが慣用だから許容すると逃げている《ibid,167》。
シェルピヨは、naskiĝiを中動態と認めており、これをago nevola, nekonscia(意志によらない、無意識的な行為)とするが、出生という出来事を無意識であれ新生児の行為とするのは無理と言わざるを得ない《Lingvaj Babilaĵoj, p.92》。
われわれが1. で見たエス語の中動態の実例もこれらの文法家たちの理屈では説明がつかないことは明らかだろう。典型的な中動態の例、rompiĝi(壊れる)、vidiĝi(見える)、audiĝi(聞こえる)さえ説明できない。
では、なぜかれらは苦しい、無理な説明に終始しているのか。その理由はかれらが依拠した理論 ― 言語学者たちの中動態についての伝統的説明そのものが混乱していて、それを引きずっているからだと思われる。しかしPAGが動詞の態を4種に分類したことは重要であり、のちに日本語と比較する際に取り上げよう。
従来の欧米の言語学者、古典語の研究家の理解では、「動作主が行なう動作が,自分自身に及ぶ」動詞の用法であり、サンスクリットや古代ギリシャ語のような古典的な印欧語には能動態と並立して存在した。その後中動態は受動態を派生させ、自身は次第に消失する。ラテン語ではすでに中動態は痕跡をとどめる程度で、現代の欧米の有力な言語ではほとんど姿を消して、ドイツ語やフランス語の再帰構文などに意味が継承されているという。
これらの伝統的な中動態理解から一歩を踏み出したのが、バンヴェニスト( É. Benveniste)であり、「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を示している。これに対する態である中動では、動詞は主語がその座となる過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」と述べた。今日、言語学者、各国語の専門家の間でバンヴェニストの考察が最も優れたものとされている。小野文・粂田文編『言語の中動態、思考の中動態』2022は、7人の言語学、言語思想史、哲学、心理学、文学の研究者による論文集であるが、中動態の捉え方はほとんどがバンヴェニストに依拠しており、誇張していえばバンヴェニスト論集といえないこともない。
しかしながら、上に示したバンヴェニストの定義では、われわれの挙げた日本語、エス語の中動態の態様、働きを説明できない。おくればせながら、ここでわれわれの中動態の論拠を明らかにしておこう。
カナダのモントリオール大学で日本語を講じていた金谷武洋は、日本語には主語がないとする三上章の文法の妥当性を擁護し、古代の印欧語も古英語も主語を不要としたことを力説する。2004年に出版された『英語にも主語はなかった』の中で、中動態についても論じている。かれは、伝統的説明、G. ギョーム(G. Guillaume)、バンヴェニスト、さらに日本人英語学者、細江逸記などの先行研究を検討して以下の結論を導く。
印欧語古語の中動相(態)の機能は、「行為者の不在、自然の勢いの表現」
であり、さらに中動態は、「印欧語における無主語文」である。
金谷は、印欧語古語について述べているだけだが、この定義はわれわれの見てきた日本語、エス語の中動態を見事に説明している。金谷には後ほどまた登場願うとして、われわれの見方に強力な援護射撃となる、あまり知られていない(あるいは無視されている)論者を紹介しよう。オランダの古典文献学者ヤン・ゴンダJan Gondaは、欧米の言語学者の説を批判的に検討し、ヴェーダ(サンスクリットの古形)、サンスクリット、古典ギリシャ語、ラテン語等の用例をつぶさに吟味し、印欧語の祖型の中動態の本質をそれを用いた人びとの心理から明らかにした。かれの中動態理解の射程も現代日本語とエス語の中動態へも届く。かれは言う《原文英語、Reflections on the indo-european madium I, II, Lingua IX, 1960》
中動態の「本来の」または「本質的な」機能は、主語が「自身の領域で行われている過程を遂行する」ことを表すのではなく、ある過程が人や物に関して、生じたり、影響を与えたり、または起こっていることを表す。この定義に含まれる場合として、何らかの力や強力な何かが、主語の中でまたは主語を通じて働いていたり、主語の中でまたは主語を手段として出現すると、かつて中動態を本来の機能で用いていた人々の目には映っていた…注
ここで指摘されているのは、中動態表現において主語は、行為の主体ではなく、なんらかの過程(事態、出来事)の影響を受ける存在であり、そして多くの場合その過程が人為的というより自然的と感じられていた、ということである。さらにゴンダは、中動態は、なんらかの出来事を描写することで「出来事的(英語でeventive)」である、と述べている。
このゴンダの論文は1960年に発表されているが、実はそれより30年以上前に、日本語と印欧語に共通する中動態の働きを指摘していた日本人がいた。1928年に論文「我が國語の動詞の相(voice)を論じ、動詞の活用形式の分岐するに至たりし原理の一端に及ぶ」市河三喜編『岡倉先生記念論文集』を発表した英語学者細江逸記である。細江が主張したのは次の点であった。
原始印欧語にあった中動態と同じ機能を持つ助動詞「ゆ」が古代日本語にあり、のちに「ゆ、らゆ」さらに「る、らる」に変化するが、その機能の中心は印欧語と同じく反照(再帰)であった。そこから自動、受動、可能、尊敬に分岐するが、自動詞は自然の勢いを表していた。
金谷は、細江の考察を高く評価しつつも、かれが「反照、受動、自動」を機能の分化としてとらえ、通時的にこの順序で分化したという主張を批判している。金谷、ゴンダによれば再帰構文は、印欧語にあっても、かなり後期に、すなわち派生的に発展したのである。
細江の画期的な、バンヴェニスト、ゴンダに先立つ研究を引き継ぎ発展させ、日本語の中動態を研究した言語学者、文法家は残念ながらいなかったようである。ちなみに、細江は、サンスクリット、ギリシャ、ラテン等の古典語、北欧語を含む近代西欧語のみならず、朝鮮語、アイヌ語等にも造詣の深い言語学者であった。さらにかれは、エスペランティストとして勤務先の大阪高商においてエスペラント会設立を支援し、講習会を指導し、有能な指導者を育てた。かれの中動態理解にエスペラントが何らかの影響を及ぼした可能性もあるのではなかろうか。
さて、細江、金谷とゴンダの示唆するところは、中動態が単なる文法の問題にとどまらず、人間の発想、思考形態に関わるということを確認したところで、改めて著者の中動態の定義を確認しておこう。
能動態が行為を表現するのに対し、中動態は出来事、事態の変化を表現する。その背後には自然の勢いや明示されない他者の行為がある。主語がある場合、それは行為主体ではなく、出来事の影響を被る場を示す。
この定義により現代日本語とエス語の中動態を説明できると考える。またこの定義からすれば、エス語の中動態をPAGやPMEGの言うように -iĝ 動詞に限る必要もなく、pluvi、nebuli、tondri(雨が降る、霧が出ている・霞む、雷が鳴る)などの自動詞もneĝi、tagiĝi(雪が降る、夜が明ける)同様、仲間にいれてよいだろう。
なぜ、細江、ゴンダ、金谷が多くの言語学者のなかで抜きんでて中動態の本質に迫りえたのか、その理由の一つとして彼らが古典印欧語、中世西欧の言語や古代から現代の日本語などに接して、それらに主語が必須ではなかった、むしろ主語がないのが当たり前、という事実に向き合っていたということなのだろう。換言すれば、「主語」という罠にはまらなかったのである。この主語の問題性については、のちに詳細に検討したい。
3. 日本語の動詞とエスペラントの動詞
以上で、日本語とエス語の中動態の根底に共通の発想、思考様式が横たわっていることが示唆されたが、次にそれぞれの動詞体系の中で自動詞である中動態が、どのように他の態と関わっているかを見ることにしよう。
金谷は、2002年刊行の『日本語に主語はいらない』の中で、動詞の活用を整序し、「受身 – 自動詞 – 他動詞 – 使役」という系列の中に意味の連鎖を見出した。受身を表現するのは助動詞の「れる・られる」であるが、この助動詞は受身のみならす、自発、可能、尊敬の意味をも担っている。例を示すと、受身「先の選挙で議席を奪われた」、自発「故郷が思い出される」、可能「明日は映画に行かれる」、尊敬「次に先生が話される」のように。これらは、ある行為が主体のコントロールを超えたところで生起・生成していることを表現している。可能においては、自己が特に選択や制御の自覚をもって行うというより、受動的に事柄が順調に進行している状態と意識されるのが普通だ。また、尊敬する人の行為はこちらがコントロールできないので受身と同様、「られる」が用いられる。
さらに金谷はすすんで、自動詞 – 他動詞の中に多くのペアを見出した。立つ – 立てる、育つ – 育てる、縮む – 縮める、焼ける – 焼く、折れる – 折る、などである。そして、「自動詞の機能とは行為者・動作主としての人間をあえて表現しないこと」という。自動詞 – 他動詞のペアこそは、われわれが先に見た中動態 – 能動態のペアであり、金谷の言う自動詞の機能はまさしく中動態の機能ではなかろうか。
日本語応用言語学が専門の原沢伊都夫は、『日本人のための日本語文法入門』2012 において、日本語の動詞は自動詞と他動詞のペアが基本であるとする。ペアの例として、消える – 消す、沸く – 沸かす、冷える – 冷やすなどを挙げ、「自動詞はある現象が生じるのを、他動詞は人間がある現象を引き起こすのを、描写」するという。これは今確認した金谷の主張と重なり合う。
このように金谷も原沢も実質的に中動態の機能(=存在)を認めていると同じではなかろうか。それにもかかわらず、二人は「中動態」という用語の使用を避けている。専門家として、日本語文法の説明に印欧語の文法用語の安易な導入は避けたいという、保守的な心理が働くのだろう。一方、言語学者でない人たち、社会学者の大澤真幸、哲学者の國分功一郎は日本語における中動態の存在を明言する。大澤は『生成AI時代の言語論』2024において「…日本語には、現在でも中動態がある。「自動詞」と分類されている日本語の動詞は、実は中動態である」と述べる。國分は、雑誌『kotoba』2025において、「見える」を例に引いて「これは中動態なんですね」という。國分の2017年刊行の『中動態の世界』は、日本語について触れるところは少ないが、思想界に大きな反響を呼んだ重要な文献であり、本稿では言語の歴史的発展との関連で参照することになる。
われわれは、日本語の自動詞が中動態であることを確認したが、もう一方のエスペラントはどうであろうか、もう一度立ち戻ってみることにしよう。先にPAGによってエス語には4種類の態があることをみたが、そこで叙述された態の順序を並べ替えて、pasivo(受動態)、medialo (中動態)、aktivo(能動態)、faktitivo(使役態)としよう。さらに中動態は自動詞、能動態は他動詞なので、自動詞 – 他動詞のペアを作ってみる。すでに1章でみた中動態動詞を含めてaŭdiĝi – aŭdi(聞こえる – 聞く)、vidiĝi – vidi(見える – 見る)、
stariĝi – starigi(立つ – 立てる)、libeliĝi – liberigi(自由になる – 自由にする)、sentiĝi – senti(感じられる – 感じる)、evidentiĝi – evedentigi(明らかになる – 明らかにする)のような自 – 他動詞のペアが作れる。そしてこれらの自動詞が中動態であることは自明であり、エス語においても文法の中核に中動態はしっかりと根を下ろしているのがわかるだろう。
自動詞 – 他動詞の対応が確認できればあとは簡単だ。日本語もエス語も受身と使役は機械的に作れて、きれいな対応を見せる。
聞かれる – 聞こえる – 聞く – 聞かせる
esti aŭdigita – aŭdiĝi – aŭdi – aŭdigi
見られる – 見える – 見る – 見させる
esti vidita – vidiĝi – vidi – vidigi
決められる – 決まる – 決める – 決めさせる
esti decidita – decidiĝi – dfecidi – decidigi
消される – 消える – 消す – 消させる
esti estingita – estingiĝi – estingi – estingigi
暖められる – 暖まる – 暖める – 暖めさせる
esti varmigita – varmiĝi – varmigi – varmigigi
閉められる - 閉まる - 閉める - 閉めさせる
esti fermita – fermiĝi – fermi – fermigi
言語学の類型論からすると、日本語もエスペラントも膠着語に分類され、実質的な意味を持つ語幹に様々な接辞がついて文法的機能が変化する。原則として単語レベルで自動詞、他動詞が区別できる。一方、英語やフランス語、中国語などでは、動詞が自動詞にも他動詞にも使われるので、構文レベルでないと自動詞、他動詞が区別できない。
2026.10.22