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somero 2023 会報

長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その5

VERDA GEMO   2023 somero n-ro 5

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Sanjo

 1980年代後半は、外国からのエスぺランティストがたくさん我が家にやってきた。子どもたちはまだ小さくて、お客が外国人だろうが日本人だろうが気にしなかった。ちょっとしたあいさつくらいはエスペラントで言ったかもしれない。

オーストラリアのレイ・ベルクマンを迎えて

 エスペラントの世界大会(UK)には、Infana Kongreseto「子ども大会」と呼ばれる行事がある。親たちが世界大会に参加している間、こどもたちは別の場所で1週間、親と離れて過ごす。1989年、イギリスのブライトンで世界大会があったとき、無謀にもInfana Kongresetoに申し込んだ。ふたり一緒だし、どうにかなるだろうと簡単に考えていた。結局、この年の初めに私の父の具合がかなり悪くなり、イギリス行きはキャンセルせざるを得なくなった。ほとんどエスペラントがわからない7歳と5歳のこどもたちを参加させるなど、現在ならとても考えられないし、受け入れる側も困っただろう。父はその年の暮れに亡くなった。

 その間も外国人エスぺランティストの受入れは続けていた。その中に、フィンランド人のペッカさんがいた。彼はわたしたちにぜひフィンランドにいらっしゃい、と言ってくれたので、1991年夏にタンペレの彼の家を家族みんなで訪ねた。エスペラントを使っての初めての海外旅行だった。フィンランド第2の都市であるタンペレでは、1995年にUKが開催されたのだが、エスペラント活動は活発だったようだ。5,6日お世話になって、あちこち連れて行っていただいたのだが、本物のサウナ、ムーミン谷博物館など、楽しかった。この頃、ケータイ電話が非常に普及してきて、ノキアの製品もけっこう目にする機会も多かったのだが、タンペレで遠目にノキアの工場を目にして、さすがと感心したものだ。

 タンペレの後、ヘルシンキではたまたま転勤でそこに住んでいた娘のクラスメートのご家族の家にお世話になったのだが、ヘルシンキの町を歩いていて、偶然緑の★のバッジをつけた人とすれ違い、思わず声をかけた。その人は、ノルウェーのベルゲンでのUKに行く途中にヘルシンキに立ち寄ったそうだが、ちょっと驚いた。フィンランドからさらにロンドンへ行ったのだが、そこではエスペラントとは縁のない1週間を過ごした。今思うと残念ではあるが。

 この年、1991年というのは、ソ連邦が崩壊した歴史的な年である。私たちの飛行機は、モスクワ乗り換えのヘルシンキ行きだったが、モスクワで1泊しなければならなかった。この便には、偶然にもベルゲンのUKに向かう埼玉の小林歌子さんが乗っていた。彼女は当時すでに定年退職していたはずだが、ひとりで行動する、自立したエスぺランティストだった。ソ連の悪口を言うつもりはないが、ホテルはひどかった。空港も。ソ連国内の政治状況はガタガタしていて、わたしたちがモスクワ経由で帰国してから間もなくして、ゴルバチョフ大統領が打倒され、その年末にはソ連邦は解体された。わたしたちの帰国がもう少し遅かったら、トラブルに巻き込まれたかもしれないと思うと、今さらながらラッキーだったと思う。小さな子ども連れでは、何をするにも大変な上に、モスクワに知っているエスぺランティストはいなかった。街中で偶然にエスぺランティストに出会うということだってそうあることではないが、この旅では2度あったことになる。

 ホテルも空港も酷い状態ではあったが、モスクワでの唯一のいい思い出は、朝の食堂で食べたゆで卵。サイコーにおいしかった!前日夕から何も食べていなかったからだと思うが、今でも家族全員がこの件では意見が一致している。

(続く)