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printempo 2024 会報

長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その7

VERDA GEMO   2024 printempo n-ro 8

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Sanjo

 子育てのために志木市に転居した後は、専業主婦の生活を送っていた。エスペラント活動は、先述したように、海外からのエスぺランティストの受入れをときどきするくらいで、JEIの機関誌La Revuo Orientaさえあまり読めなかった。が、こどもたちが小学生になり、何か地元でやりたいと思い、学校のPTA役員や生協活動などを始めた。元々活動的なことが好きだったこともあり、けっこう忙しい生活を送っていた。

 そんな1993年頃、私宅でエスペラントをやっていたKさんから、英語を教えてみたら、というお誘いがあった。彼女は自宅で英数塾をやっており、生徒の一部を私に回してくれるというのだ。数学はまるでダメの私だが、英語ならどうにかできるだろう、ということで自宅で英語塾を始めた。幸いに生徒はどんどん増えて、日曜以外のほぼ毎晩、中・高校生に英語を教えた。私の娘と息子もクラスに入れ、数学は件のKさんに教えていただいたので、わが子たちは民間の進学塾にはお世話にならずに済んだ。英語塾は2009年で閉じた。

 この間、中学生や高校生にエスペラントのことを話す機会が少しはあったし、海外のエスぺランティストにクラスに参加してもらったことも多少はあったが、わが子の中からも生徒たちの中からもエスペラントをやりたいというこどもは出てこなかった。とても残念なことではある。この時期、学校給食、リサイクル、環境問題などに取り組む市民グループを立ち上げ、その会の名前をラ・ボーロ(La Volo)とつけた。その名前の由来を人に語るときには、必ずエスペラントに触れたので、少しは宣伝になったかな?

 2000年になって、ようやくエスペラント活動に復帰した。最初は、教職員エスペラント協議会 Asocio de Lernejaj Esperantistoj (ALE)というグループに入れてもらった。教員ではなかったが、塾をやっていたということで、仲間にしていただいた。当時はJEI会員の中に学校教員の方がけっこうたくさんいた。1998年、「総合的な学習の時間」が日本中の小・中学校の教育課程に創設され、いわゆる「出前授業」が可能になったことから、ALEではこの機会を積極的に活用した活動を行っていた。ALEの会員以外にも、全国でエスぺランティストが地元の学校に働きかけて、エスペラントについての出前授業を行っていた。私は鳩山町の鳩山中学校へ、地元のエスぺランティストWさんと一緒に2回出かけた。1回が2時限程度の授業で、エスペラントがどんなものか生徒たちに紹介するのだが、生徒たちの興味と感心を少しでも引くべく、プレゼンをした。しかし、1回の出前授業がその後に結びつくことはなかった。全国どこでもそうであったろうと思う。

 エスペラントの側は、エスペラントのいわゆるpropedeŭtika valoro 「予備教育的価値」、つまりエスペラントを知っていると他言語の習得が速いという利点、を言うが、残念ながら日本においては実践例がなく、証明のしようがない。さらに、エスペラントを1回限りではない、通年の授業として行いたいという申し出が万一あったとしても、それに応え得る教材もカリキュラムもない。ALEの活動では、そこまでやる力もなかった。そして、日本の学校システムの中には、エスペラントを導入する可能性もまるでなかった。

(続く)