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somero 2023 会報

挨 拶 考

VERDA GEMO   2023 somero n-ro 5 石川尚志  若い頃北欧系の会社に勤めていて、そこには何人かのスウェーデン人がいた。普段は仕事上の接触ばかりだが、時には社内のパーティーなどで仕事を離れた話をすることがあった。あるとき日本に長く住んでいる技術系のG氏が、そういう席で私に問いかけてきた。  日本語の「さようなら」という挨拶は実際どういう意味か知っているかというのだ。私は「左様ならば、これにてお別れします」とか「左様しからば、これにて御免」の後半が省略されたものだ、と答えた。会話は英語だったから“If so, I will leave.”の略と答えたのだ。G氏はにやりと笑って「よく知っているな。自分が聞いた日本人の多くは答えられなかったぞ」と言った。  最近そのことを思い出して、改めていろいろな言語の挨拶について考えてみた。挨拶というものはどの言語でも短く、大体は何かが省略されている。省略できるのは、互いになにが省略されているかわかっているからだ。その省略の仕方が言語によってどう違うか、どんな特徴があるか、考えた。  まず身近な英語だ。Goodbye (Goodby)は、God be with you(ye).の短縮形だが、その後ろのtill we meet againが略されているという。讃美歌に“God be with you till we meet again.”とあり和訳では「また会う日まで、かみのまもり汝が身を離れざれ」となっている。さらに言えば、冒頭のI wishも省略されているので、真ん中だけが表現されている形である。  では、我らのエスペラントはどうか。別れの挨拶の定番は、“Ĝis revido!”である。まさにtill we meet againである。また会う日までどうしろというのか。キリスト者ならDio estu kun vi かもしれないし、無神論者ならFartu bone!でもいいだろう。仏語のAu revoir!も独語のAuf Wiedersehen!も同じだろう。  「今日は」、「今晩は」は「良い天気ですね…」などが略されていると考えられ「おはよう」は「朝早くから精が出ますね」とか「お互いに早いですね」などが背景にある。一方で、エス語は“Bonan tagon”、“Bonan nokton”のように目的格なので”Havu bonan tagon.”とか”Mi esperas al vi bonan nokton”のように他動詞が隠れている。英語のGood morninigは格が判らないが独語ではGuten morgenのように目的格なので同じと考えてよいだろう。  以上を一般化して考察すると、日本語でも外国語でもます、相手方に対して「事態、状況の確認、共有」の呼びかけがあり、それを踏まえて話者の「意志、希望」を述べるのだが、どちらかが略される。「左様なら」「こんにちは」「おはよう」は典型的に状況の確認であって、その後の「帰る」、「元気でいて」などは省略されるというより、もはや意識されないのだ。ところが英語では、状況は後景に退き、話者の相手に対する意思、希望がGod […]

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specialo 2023 会報

佐々木さんを悼む

VERDA GEMO   Speciala numero 石川尚志 佐々木照央さんが逝ってしまった。私より4歳も若いのに。最近の私にとって最も親しいエスペランティストだった。『危険な言語』を一緒に訳していたから連絡を取り合っていた。 佐々木さんと言えば、サイゼリア。そこでの赤ワインとエスカルゴである。彼の最寄りの駅は武蔵野線の西浦和、私は東上線の柳瀬川。彼は隣の北朝霞、私は二つめの朝霞台で駅が繋がっているので、そこで落ち合いサイゼリアに繰り込む。一杯百円の赤ワイン。二人共年金生活者なので贅沢はできない。ワインはまあまあ、グラスがプラスチックなのが興ざめだが、安いのだからしかたない。昨年の3月16日にそこでワインを飲みつつ二日後の出版社訪問の打ち合わせをした。もちろん話題は2月のロシアによるウクライナ侵攻に及んだ。彼はロシア語の専門家、ロシア思想史で社会学博士となった人であり、ロシアもウクライナも度々訪問している。もちろん、ロシアの侵略に対する批判は厳しかったが、ウクライナのマイダン革命の経過などに対しても厳しい見方を示していた。二日後の都内の出版社訪問は実務的な話で終始、あっさりと別れた。それが実際に会った最後である。 今、佐々木さんとのLINEのやりとりを点検していて、2021年の12月2日に受信した内容に「本日ガンマナイフ手術終了、脳下垂体腫瘍を切除。医術の進歩に驚嘆」とあるのに気づいた。すでに2021年の秋ごろから眼の異常を訴えていたが眼科の範囲ではなく、脳神経科あるいは脳外科の対象となっていたのだった。3月までは体の不調を訴えることもあまりなかったが、4月になってLINEのビデオ通話に左眼に眼帯をして現れるようになった。それからの佐々木さんは、数度のガンマナイフ手術、経鼻手術、開頭手術を重ねたが効果なく、今年の2月に亡くなられたわけである。 昨年の晩秋までに佐々木さんは『危険な言語』の自分の分担を終え、一方の眼だけで痛みに耐えつつ、いろいろな仕事に打ち込んでいた。10月8日のLINEでは、「小学館からのエロシェンコ著作集は出版の最終段階、荘子ももうすぐJEIに到着。どちらか実現したらいつものようにワインで乾杯したいですね」とあった。だが、それももうかなわない。 3月2日の葬儀には密葬とはいえ、関東連盟の山野さん、ロンド・コルノの菊島さんと共に参列してお別れすることができた。佐々木さんの残されたものは多大である。墨子、荘子、荀子はエスペラント初訳であり、彼は日・中・英の訳、評釈を参照、批判的に吟味して自己の訳を完成した。私に残された多くはない時間を佐々木さんに献杯しつつ、中国古典の未読に充てたい。 2023年3月

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vintro 2023 会報

エスペラント、日本語、そして… ―その3―

VERDA GEMO   2023 printempo n-ro 3 その1 その2 その3 石川尚志  前号では、PAGなどの中動態に対する定義が混迷している背景に特定の言語観、S-Vのドグマがあると指摘した。S-Vのドグマとは何かを見てゆこう。日本語で一番短い会話として取り上げられる例で、青森地方で話される会話がある。路で行き合った知人同士の会話である。 A:どさ? - Kien? B:えさ。/ゆさ。- Hejmen /Banejon.これで十分意思疎通ができている。対応するE-oも過不足ないではないか。別に主語や動詞が省略されていると考えなくてもよい。会話が短い理由として、吹雪の中などで、口を開いてお喋りしてると雪が入ってくるので、それを避けるため会話が最小限になる、などという説明もあるらしい。言語学者によれば古い印欧語(ギリシャ語、サンスクリットなど)には、日本語も同様だが、動詞の活用もなく、主語などもなかった。主語、述語、目的語などに関する基本的考え方は、12~13世紀に形成されたという。西暦1100年以前の古英語には主語はなかったが、現代の英語では必ず主語が必要とされIt rains.、It seems to me. のように形式主語(dummy subject、金谷氏によれば馬鹿主語)を持ってこなければならない。  主語が必須とされる言語は、一説によれば、英、仏、独、ロマンシュ語(スイス)、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語のみで、その他ユーラシア、アメリカ、オセアニアを問わず圧倒的多数の言語は必ずしも主語を必要としないという。もちろんエスペラントでも主語は必須ではない。だから主語を必要とするほんの一握りの言語を標準にして普遍的文法を構築するなどというのは、おかしいという気がしてならない。金谷氏が中動態の本質の探究にあたっては、欧米の言語学者、A.メイエ、O.イェスペルセン、E.バンヴェニストや日本の文法学者、細江逸記の所説を検討している。彼が評価するE.バンヴェニストは、古典ギリシャ語とサンスクリットには受動相(態)はまだなく、能動相(態)と中動相(態)が対立していたとし、能動相を外相、中動相を内相と呼ぶ。能動態の動詞は、その行為が主語に発して他に向かう。中動態の動詞では、行為、状態は主語から他に向かわない。行為、状態の内部に主語がある。彼は、能動態と中動態を、動詞が外で働くか、内で働くかで区別したことは画期的であるが、まだ主語にこだわっていて、中動態動詞を主語と結びつけてしまった。一方、日本の文法学者細江逸記は、バンヴェニストより40年近く前の1928年に、印欧語には本来「受身、受動相」はなく、あったのは能動相と中動相の対立であり、中動相は日本語の助動詞「る・らる」と基本的に同じで、反照(再帰)、受動、自動の機能を持つ、と主張した。さらに「自然の勢い」が中動態の意味の根底にあるとする。  金谷氏はこれらの所説、とくにバンヴェニストと細江をベースに古典語には主語がなかったという事実を重ねて、先に紹介した、中動態は「印欧語における無主語文で、機能は「行為者の不在、自然の勢いの表現」としたのである。  ここで中動態の特色を視覚的に分かりやすくするために他の態や紛らわしい再帰形との比較を図示してみた。矢印は動作、力の方向を表す。中動態で主語と動詞が同一線上にないのは、主語は状況の変化が起こる場所を示すのみであり、動詞の主語ではない、つまりS-Vではないことを示している。「行為者の不在、自然の勢いの表現」がうまくイメージ化されているか、自信はない。 ― 完 ―

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aŭtuno 2022 会報

エスペラント、日本語、そして…… -その2-

VERDA GEMO   2022 aŭtuno n-ro 2 その1 その2 その3 石川尚志  前号で、中動態の文は「主語の行為」を表すのではなく、「主語に生じた事態、状態の変化」を表すのであって、文法上の主語は、出来事が起こる場所を示すのみ、と書いた。中動態の本質についての議論は、言語学者、金谷武洋氏に依拠している。氏の『日本語と西欧語』(講談社学術文庫)p.227に「印欧古語には、行為者を全面に打ち出す能動相と対立する文法カテゴリーとして中動相があった。その機能は行為者の不在、自然の勢いの表現」とあり、中動相は「印欧語における無主語文」ともいう。私は、金谷氏の定義を古語だけでなく現代語にも適用するため、「自然の勢い」に加えて「第三者の行為」を加え、「行為者の不在、第三者の行為を含む自然の勢いの表現」としたい。  金谷氏はカナダで言語学を研究し日本語を教える過程で、日本語に主語はいらない、と主張する三上章の文法の合理性・有用性に気づいた。そして、主語の不在という現象は日本語に特有なものではなく、サンスクリット、古典ギリシャ語のような古典語でも、中世英語などもそうだったと論じている。氏はそこから出発して、文法学者の間で議論の決着がついていない中動相(中動態)の問題を、バンヴェニスト、ギョーム、細江逸記等の議論を批判的に検討して解決を導いた。このように私は理解しているが、三上文法自体、日本の国語学者の多数に受け入れられてはいないし、金谷氏の中動態論も言語学者には評価されていないように見える。また、金谷氏はエスペラント(E-o)にはまったく言及していないので、中動態とE-oの関係は、まったく私の創見(aŭ非創見aŭ皮相見?)になる。  日本語における主語の問題について、中動態から話がそれるが触れておきたい。上司が部下に「この仕事、やってくれないか?」と頼んだとする。肯定的な答えとして、「やります」「私がやります」「私はやります」という三つの答えがありうる。意味は微妙に違う。「やります」には特別な含みはないが、「私はやります」というと、「他の人はどうであれ私はやる」という意味だし、「私がやります」だと「他の人を差し置いても自分がやりたい」というニュアンスである。それぞれ意味は違い、代替性はなく、「やります」はこれで完全な文であり、後二者の省略形ということはない。また、助詞の「は」「が」は主格を示すとは限らない。例えば、「子供は寝かせたか?」「学校は行った?」「ラーメンが食いたい」などを考えれば分かるように、「子供」「学校」「ラーメン」は目的であり、ここでの「は」「が」は主題を示している。  国語文法が明治以来、英語文法(近代印欧語文法)の影響を受けて、主語必要論が主流となっているようだ。また後に見るように、西欧人のE-o文法家たちは、主語の存在を前提としていて、それが中動態の理解の妨げになっていると思われる。  では、具体的にE-o文法のなかで中動態がどのように扱われているかを見てみよう。K.Kalocsay-G.Waringhienによる文法書、Plena Analiza Gramatiko de Esperanto (PAG)が、中動態についても最も体系的、詳細に論じている。他の論者はPAGを下敷きにしており、例文も説明もほとんど同じである。PAGは言う。 La mediala voĉo, esprimata per iĝi, unuigas en si propre la aktivon kaj la pasivon: la subjekto estas samtempe ankaŭ la objekto de la ago: ĝi faras la agon pri si mem. PAG, p.166. つまり、中動態は能動態と受動態の合一で、そこでは主語は同時に目的語であり自己に対して行為する、ということである。それでは、前回に見た動詞の再帰形とどう違うのか、ということになる。PAGは再帰形(refleksivo)は、自発的意思による行為であり、中動態の行為は自発的・意識的でない行為であるという(PAG,p.276)。Mi naskiĝis en […]

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somero 2022 会報

エスペラント、日本語、そして……

VERDA GEMO   2022 printempo n-ro 1 その1 その2 その3 石川尚志  エスペラント(以下E-o)と日本語にはどんな共通性があるだろうか?もちろん、どちらも人間の言語だから、同一の事象や感情を表現する働きがある。だがこれから問題にしようとするのは、英独仏のようなよく知られた現代の有力な言語(主として印欧語族)にはあまり見られない特徴が、エス語と日本語の間に存在し、そしてそれが言語の本質や起源にまでつながっているのではないかということだ。  E-oは文法・語彙の90%以上を印欧語族から借りているが、計画言語なので言語系統論上、エス語が印欧語族に属するとはいえないようだし、日本語をモンゴル語や朝鮮語のようなアルタイ語族に含めるかどうかは別として、互いに遠い存在であることは明らかである。  類型論からいえば、日本語もE-oもトルコ語などと同様に膠着語に分類され、中国語やベトナム語のような孤立語、ラテン語、ドイツ語、ロシア語のような屈折語と対比させられるが(J.Wells, Lingvistikaj Aspektoj de Esperanto)それだけの話で、そこからなにかが引き出される訳ではない。  音韻については、E-oも日本語も母音が5個であって、英、独、仏、中国語、韓国語などの発音に悩まされる日本人にとっては有難いが、ザメンホフが学んだロシア語、ラテン語、ヘブライ語なども5母音ということなので格別な意義はない。  以下で私は、「中動態」と「主語無し文」という二つの概念によって日本語とE-oを対比させ、そこから何が見えるかを探ってみたい。私の議論は、主として(多くは日本の)言語学者や哲学者の記述に基づき、E-oに当てはめているが、もとより私は言語学も哲学も正式に学んだことがなく、単なるつまみ食いなので、とんでもない誤読や誤解、牽強付会があるかもしれないことをお断りしておく。  早速、中動態の検討に進もう。中動態は、現代の印欧語族にはほとんどみられないが、日語とエス語ではありふれた表現であり、対応する表現が多い。 Taro rompis la tason. 能動態 太郎が 茶碗を壊した。 La taso estis rompita de Taro. 受動態 茶碗が 太郎に壊された。 La taso rompiĝis. 中動態  茶碗が 壊れた。 E: Mi naskiĝis en Tokio. 中動態 私は東京で生まれた。 英: I was born in Tokyo. 受動態 独: […]