VERDA GEMO 2024 aŭtuno n-ro 10 その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 Sanjo 私が初めて世界エスペラント大会(UK)に参加したのは、1994年の第79回ソウル大会であった。(その6参照)最初のUKとなれば印象も強いはずだが、フルで参加したのではなく、初心者の友人二人と一緒でもあり、番組への参加も限られたため、あまり印象には残っていない。 2004年の第89回北京大会が、私にとって本格的に参加した最初の世界大会といえる。参加者が2000人を超えて、大規模なUKであった。私はまだ世界大会に慣れていなかったので、JEIの旅行団に加わった。通常の大会番組のいくつかに参加したが、ヨーロッパなどからのエスぺランティストが流暢に話すのに刺激されて、私もいつかあんな風に話せるようになりたいと思った。この大会では、現在も交流が続いているスイスのMirejoと初めて会った。恒例のNacia Vesperoは、中国の出し物のスケールが大きくて、すばらしかった。大会中の遠足では、万里の長城や故宮、天安門などの代表的な観光地も楽しんだ。遠足のバスで隣に座ったエスぺランティストと話すのはいつも楽しい。 大会後観光にも参加した。6日間でシルクロード沿いのオアシス都市と新疆ウイグル自治区を巡ったのだが、これが素晴らしかった。敦煌の莫高窟を見学したときは、快晴で涼しい風が吹き、北京の暑さと全く違う気候を実感した。莫高窟の仏教遺跡は見事だったし、トルファン周辺の重要文化遺跡の数々、『西遊記』でも有名な火焔山、天山山脈など名前では知ってはいても、実物を目にする機会はないと思われた遺跡や景色を目にして、とても感激したものだ。トルファン名物の葡萄園で生産者を直に訪ねることもできた。もう一つ驚いたのが、まだ日本では目にすることがほぼなかった風力発電の巨大な風車が、砂漠のような場所に何十も並んで立っていたことである。20年も前にである。 中国の政治状況は、当時とは大きく違ってしまい、現在では外国人が自由に新疆ウイグル自治区を旅行することは難しいようだ。ウイグル人への弾圧や人権侵害もますますひどくなっていると思われる。わたしたちが訪れたときは、ウルムチの街の様子はイスラム文化圏そのもので、バザールやモスクなど多くの人でにぎわっていた。最近では新疆ウイグル地区のニュースを聞くたび、いつも思う。自然的にも歴史文化的にもスケールが大きくて多様な地域を、漢民族主体の中国という、つまらない思想で中国政府が統制を強めていることは嘆かわしいことだと。 ウルムチで理解に苦しんだことは、太陽がまだ高いのに、時間は夜の9時ということ。実際には北京と4、5時間の時差があってしかるべき距離なのに、行政の統一をはかりやすいとか、ビジネス面での利便性が高いという理由で、北京時間と同じ時間が採用されているのだそう。人間の身体は、日の出、日の入りのリズムと連動して活動するのが自然であるのに、これは良くない。非常に違和感を感じた。 一般的な観光旅行でもこういう経験はできるのだろうが、世界の各地から参加したエスぺランティストとあれこれ意見を交わしながら、一緒に驚いたり、地元のお料理を味わったりできるのは世界大会の醍醐味と言えるのではないだろうか。わたしはこの北京大会以降、世界大会とILEI大会へ参加するために、イタリア、オランダ、ベナン、ポーランド、ベトナム、アルゼンチン、ウルグアイ、ハンガリー、韓国などを訪れる機会を得た。一部観光も含まれるが、北京大会のときのような、6日間にわたって特定の地域に行ったということはない。今思うと、非常に貴重な経験をしたと思う。エスペラントをやっていなければ、おそらくはこういう機会はなかっただろう。この時一緒に参加した日本人エスぺランティストのうち、すでに4人が亡くなってしまった。 (続く)
Kategorio: あれやこれや
長いエスペランティスト人生のあれやこれや その8
VERDA GEMO 2024 somero n-ro 9 その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 Sanjo 日本の外国語教育は、ほぼ英語オンリーという状況が長いこと続いている。文部科学省の役人も現場の教員も、そして国民も、みんな英語ができるようになることが外国語教育の目指すべきところと考えているようだ。特に世の中がグローバル化して、英語さえできれば、ということで大学などからもその他の外国語の授業が消える現象まで起きていた時代に、学校現場にエスペラントが入り込む機会はまずなかった。エスペラントの持つ「予備教育的価値」をきちんと評価して、次の外国語(主にヨーロッパ系言語)の学習につなげれば、学習効率が高まることを証明したくても、日本ではその実験さえできる状況にはなかったし、今もない。 そんな状況下の2010年の夏、埼玉大学教育学部付属中学校で正規授業扱いでエスペラントを教えてみないか、という話が佐々木照央さんからあった。佐々木さんの埼玉大学での同僚が、その付属中学で校長先生をしていて、2学期に総合学習の一環としての「国際理解授業」にエスペラントグループを設けることにしたという。金曜日1,2時限で全7回、計700分の授業という。喜んで引き受けることにした。 生徒は2年生30人。実際の授業が始まる前に、ILEI(国際教育者エスぺランティスト連盟)のネットワークを活用して、生徒たちを励ますメッセージを募ったところ、世界各地から20通ものカードや手紙が学校に届いた。中学2年生の英語力が一般的にどの程度か、自分が塾で教えている経験上ある程度わかっていたので、エスペラントの授業も無理をせずに、しかし国際性を感じられるように進めた。途中に一日トライアルデーという日があって、ゲストを招くことができるというので、アレクサンドラさん、サリフ・ザキロフさん、ハルペン・ジャックさんに来校してもらい、さらにスカイプで当時四国に在住していたアティリオさんとも結んで、生徒たちに簡単なエスペラント会話を楽しんでもらった。それまでにたった8時間しか学んでいないエスペラントが通じたことに、生徒たちは喜んでいた。将来、何かのきっかけでこのときのことを思い出し、エスペラントを本格的に学ぶ人が出てくるとうれしい。 このような珍しくも貴重な授業ができたのは、国立大学の付属校だからだろう。その使命と役割として、「実験的・先導的な課題の取り組み」があると言われている上に、校長先生が退職を前にして、最後の企画として教職員にお願いした、と佐々木さんが言っていた。それゆえか、担当の英語教員はあまり協力的ではなかったのが残念だった。上からの押し付けで、自分たちがやりたいことではない、とでも思っていたのかもしれない。英語科の教員でも、エスペラントの存在を知っている割合は多くはない。今では英語教育の開始時期が以前よりずっと早くなって、小学5年生からは英語が正規の教科になったのに、英語の成績は上がっていないという。外国語=英語の意識を変えて、外国語教育の目指すところをきちんと理解した上での外国語教育の在り方を、文部科学省だけでなく、教育現場の方々にも見直しが必要と思う。 2003年にJEIの理事になり、最初から研究教育部の担当となったこともあり、エスペラントをどうやって学校現場に紹介・導入できるか、いつも考えてきた。中国の山西省にある小学校では、10年以上前に数年間、小学校1年から英語の代わりにエスペラントを2年教えて、その後から英語を学び始めた生徒たちの英語力を調べる実験が行われた。結果は、エスペラントを先に学習したグループの英語の成績が上であることとか、社会科など別の教科でも生徒たちの関心が高い、という結果が公表されている。日本でもこういう実験ができたらいいのだが、日本の現行の学校システムでは無理だろう。エスペラントの側でできることは、もしエスペラントが学校の教科になった場言に備えて、教材やカリキュラムの準備をしておくことだろう。そのために、仲間とともに作業を始めようと思っている。 (続く)
長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その7
VERDA GEMO 2024 printempo n-ro 8 その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 Sanjo 子育てのために志木市に転居した後は、専業主婦の生活を送っていた。エスペラント活動は、先述したように、海外からのエスぺランティストの受入れをときどきするくらいで、JEIの機関誌La Revuo Orientaさえあまり読めなかった。が、こどもたちが小学生になり、何か地元でやりたいと思い、学校のPTA役員や生協活動などを始めた。元々活動的なことが好きだったこともあり、けっこう忙しい生活を送っていた。 そんな1993年頃、私宅でエスペラントをやっていたKさんから、英語を教えてみたら、というお誘いがあった。彼女は自宅で英数塾をやっており、生徒の一部を私に回してくれるというのだ。数学はまるでダメの私だが、英語ならどうにかできるだろう、ということで自宅で英語塾を始めた。幸いに生徒はどんどん増えて、日曜以外のほぼ毎晩、中・高校生に英語を教えた。私の娘と息子もクラスに入れ、数学は件のKさんに教えていただいたので、わが子たちは民間の進学塾にはお世話にならずに済んだ。英語塾は2011年で閉じた。 この間、中学生や高校生にエスペラントのことを話す機会が少しはあったし、海外のエスぺランティストにクラスに参加してもらったことも多少はあったが、わが子の中からも生徒たちの中からもエスペラントをやりたいというこどもは出てこなかった。とても残念なことではある。この時期、学校給食、リサイクル、環境問題などに取り組む市民グループを立ち上げ、その会の名前をラ・ボーロ(La Volo)とつけた。その名前の由来を人に語るときには、必ずエスペラントに触れたので、少しは宣伝になったかな? 2000年になって、ようやくエスペラント活動に復帰した。最初は、教職員エスペラント協議会 Asocio de Lernejaj Esperantistoj (ALE)というグループに入れてもらった。教員ではなかったが、塾をやっていたということで、仲間にしていただいた。当時はJEI会員の中に学校教員の方がけっこうたくさんいた。1998年、「総合的な学習の時間」が日本中の小・中学校の教育課程に創設され、いわゆる「出前授業」が可能になったことから、ALEではこの機会を積極的に活用した活動を行っていた。ALEの会員以外にも、全国でエスぺランティストが地元の学校に働きかけて、エスペラントについての出前授業を行っていた。私は鳩山町の鳩山中学校へ、地元のエスぺランティストWさんと一緒に2回出かけた。1回が2時限程度の授業で、エスペラントがどんなものか生徒たちに紹介するのだが、生徒たちの興味と感心を少しでも引くべく、プレゼンをした。しかし、1回の出前授業がその後に結びつくことはなかった。全国どこでもそうであったろうと思う。 エスペラントの側は、エスペラントのいわゆるpropedeŭtika valoro 「予備教育的価値」、つまりエスペラントを知っていると他言語の習得が速いという利点、を言うが、残念ながら日本においては実践例がなく、証明のしようがない。さらに、エスペラントを1回限りではない、通年の授業として行いたいという申し出が万一あったとしても、それに応え得る教材もカリキュラムもない。ALEの活動では、そこまでやる力もなかった。そして、日本の学校システムの中には、エスペラントを導入する可能性もまるでなかった。 (続く)
長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その5
VERDA GEMO 2023 somero n-ro 5 その1 その2 その3 その4 その5 その6 Sanjo 1980年代後半は、外国からのエスぺランティストがたくさん我が家にやってきた。子どもたちはまだ小さくて、お客が外国人だろうが日本人だろうが気にしなかった。ちょっとしたあいさつくらいはエスペラントで言ったかもしれない。 エスペラントの世界大会(UK)には、Infana Kongreseto「子ども大会」と呼ばれる行事がある。親たちが世界大会に参加している間、こどもたちは別の場所で1週間、親と離れて過ごす。1989年、イギリスのブライトンで世界大会があったとき、無謀にもInfana Kongresetoに申し込んだ。ふたり一緒だし、どうにかなるだろうと簡単に考えていた。結局、この年の初めに私の父の具合がかなり悪くなり、イギリス行きはキャンセルせざるを得なくなった。ほとんどエスペラントがわからない7歳と5歳のこどもたちを参加させるなど、現在ならとても考えられないし、受け入れる側も困っただろう。父はその年の暮れに亡くなった。 その間も外国人エスぺランティストの受入れは続けていた。その中に、フィンランド人のペッカさんがいた。彼はわたしたちにぜひフィンランドにいらっしゃい、と言ってくれたので、1991年夏にタンペレの彼の家を家族みんなで訪ねた。エスペラントを使っての初めての海外旅行だった。フィンランド第2の都市であるタンペレでは、1995年にUKが開催されたのだが、エスペラント活動は活発だったようだ。5,6日お世話になって、あちこち連れて行っていただいたのだが、本物のサウナ、ムーミン谷博物館など、楽しかった。この頃、ケータイ電話が非常に普及してきて、ノキアの製品もけっこう目にする機会も多かったのだが、タンペレで遠目にノキアの工場を目にして、さすがと感心したものだ。 タンペレの後、ヘルシンキではたまたま転勤でそこに住んでいた娘のクラスメートのご家族の家にお世話になったのだが、ヘルシンキの町を歩いていて、偶然緑の★のバッジをつけた人とすれ違い、思わず声をかけた。その人は、ノルウェーのベルゲンでのUKに行く途中にヘルシンキに立ち寄ったそうだが、ちょっと驚いた。フィンランドからさらにロンドンへ行ったのだが、そこではエスペラントとは縁のない1週間を過ごした。今思うと残念ではあるが。 この年、1991年というのは、ソ連邦が崩壊した歴史的な年である。私たちの飛行機は、モスクワ乗り換えのヘルシンキ行きだったが、モスクワで1泊しなければならなかった。この便には、偶然にもベルゲンのUKに向かう埼玉の小林歌子さんが乗っていた。彼女は当時すでに定年退職していたはずだが、ひとりで行動する、自立したエスぺランティストだった。ソ連の悪口を言うつもりはないが、ホテルはひどかった。空港も。ソ連国内の政治状況はガタガタしていて、わたしたちがモスクワ経由で帰国してから間もなくして、ゴルバチョフ大統領が打倒され、その年末にはソ連邦は解体された。わたしたちの帰国がもう少し遅かったら、トラブルに巻き込まれたかもしれないと思うと、今さらながらラッキーだったと思う。小さな子ども連れでは、何をするにも大変な上に、モスクワに知っているエスぺランティストはいなかった。街中で偶然にエスぺランティストに出会うということだってそうあることではないが、この旅では2度あったことになる。 ホテルも空港も酷い状態ではあったが、モスクワでの唯一のいい思い出は、朝の食堂で食べたゆで卵。サイコーにおいしかった!前日夕から何も食べていなかったからだと思うが、今でも家族全員がこの件では意見が一致している。 (続く)
長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その4
VERDA GEMO 2023 printempo n-ro 4 その1 その2 その3 その4 その5 その6 Sanjo 1977年末に結婚し、千葉市で新生活を始めたが、通勤にとても時間がかかることから、1年足らずで東京荒川区の南千住に転居した。池袋エスペラント会に通うにもとても便利で、その3に書いたように、外国人エスぺランティストへの宿泊提供も何度かした。 ところが、転居後ほどなくして尚志が体調を崩し、入院することになったのだが、運よく池袋エスペラント会の仲間が働いている永寿病院(KOVIM-19が流行った最初の頃、院内クラスターで有名になった)が近くだったので、そこに入院した。その後も2,3度入院することになったのだが、病院に仲間がいるということで、何となく安心できた。エスペラント界は決して大きくはないが、いろんなところにいろんな人材がいて、何かのときには心強い。あらゆる職業の仲間がいると言っても過言ではないかもしれない。 この頃、エスペラント全国合宿がさかんに行われ、焼津青少年の家での合宿は参加者が100人以上にもなる大きなイベントだった。私は結婚直後に一度参加したきりだが、若い参加者がたくさんいて、とても楽しく有意義な学習の場でもあったようだ。今ではちょっと想像できないかもしれないが。 1982年3月に長女が生まれた。南千住は便利ではあったが、子育てにはあまり環境がよくないと思い、1983年夏に埼玉県の志木市に転居した。1984年2月には長男も誕生したので、それ以降は子育てに追われる日々となり、池袋エスペラント会に参加することはなくなったが、エスペラントを止めたわけではなかった。JEI会員は続けていたが、機関誌を読むヒマはなかった。 1985年は、国連が定めた「国際婦人年」(1975年)が拡大されて10年目にあたり、ケニアのナイロビで世界女性会議が開催された。女性の地位向上を目指して国連が設けた「国際婦人年」とエスペラントに直接の関係はない。しかし、この会議に志木のお隣の新座市の女性職員が参加したことから、この地域でのエスペラント活動が始まった。なぜエスペラントだったのかは残念ながら聞く機会はなかったのだが、その女性職員が、働く女性も参加できるようにと公民館で夜の講座をいくつか設けた中の1つがエスペラント入門講座だった。講師をどなたにお願いするか、今となっては推測の域を出ないが、もしかしたらJEIに相談したのかもしれない。講師は梅田節子さんだった。入門講座の講師としてはうってつけだった。講座を提案した職員も一緒にエスペラントを学んだという。この講座終了後、エスペラントを続けたいという人が集まって、新座市の野火止公民館に「ステリードイStelidoj」というグループができた。 私は私で同じ頃、住んでいた志木ニュータウンの集会所で小規模な「エスペラント展」を開いたところ、エスペラントをやってみたいという近所の女性が現れ、3,4人で学習会を始めた。グループ名を「grupo ‘88」とつけて、我が家で毎週のようにおしゃべり+エスペラント学習を楽しんだ。Stelidojの例会には参加できなかったが、イベントへのお誘いには参加したり、梅田さんを通じて、外国人エスぺランティストの受入れは続けていた。この頃受け入れたエスぺランティストで思い出に残っているのは、Hortensioと呼ばれた韓国のチェ・ユンヒさんとか、父がアメリカ人で母が韓国人の、当時天才少女といわれた12歳くらいのサラ・ジョーンズ。彼女は、バイオリンの演奏でもすでに一流で、中国科学院への招待旅行の途中に日本に寄ったと記憶している。他にも、ソ連(当時)の言語学者、世界一周旅行中の フランス人夫妻、スウェーデンの若者カップルなど、たくさんのエスぺランティストを迎えたお陰で、会話力はキープすることができた。(続く) (続く)