VERDA GEMO 2024 vintro n-ro 7
ソ連といえば、1986年にチェルノブイリ原発事故を起こしている。世界最悪(当時)の原子力発電所事故で、被害はかなりの広範囲におよび、ウクライナ、ベラルーシ両国にまたがる原発周辺の住民への支援活動が世界中で行われていた。志木の市民グループの友人や、生協活動の知人などもとても熱心に取り組み、特に近所のMさんは、「チェルノブイリ子ども基金」の事務局長をしていて、現地にも足を運んでいた。その彼女が、ロシア語や英語で現地やヨーロッパの仲間とやり取りをするのがたいへん、と言うのを聞いて、私はこういう場面でこそエスペラントを使うのがいいはずと思いついた。どの国のボランティア組織でも、作業言語をエスペラントにすれば、国際的な活動はずっとスムーズにいくのではないか。現地の被災者もエスペラントを学べば、直接に支援者と結びつけるはず。
そこで、仲間のふたりにエスペラントの学習を提案して、一緒に学習を始めた。週に1回、我が家で学習を続け、1994年のソウル世界大会に3人で参加した。3人とも小学生のこどもがいたので、4泊ほどの大会参加だった。私にとっても初めての世界大会だったうえに、彼女たちはまだ会話ができるほどのレベルに達していず、大会を十分に楽しんだとは言えない。その上、各国のグループにエスペラントを学んで共通の作業言語にしよう、という提案を具体化するほど私がチェルノブイリ支援活動に関わっていなかったこともあって、この計画は2年くらいで頓挫してしまった。
チェルノブイリ原発事故の支援活動に限らず、世界規模の活動を行っている組織では、英語が作業言語であり、それについては誰も疑問に思っていないだろう。活動をスムーズに進めるためには、とにかくことばが通じなければどうにもならない。世界中の学校で、母語以外の第2言語として、エスペラントを必修にできるなら、国際チームですぐにでも活動できる… 夢物語のままだろうか?
ソ連崩壊に続いて、かつてのソ連圏の国々でも革命が起こった。ルーマニアでもチャウシェスク政権が倒され、国内がかなり混乱したという。エスペラントに関して言えば、旧ソ連圏の東欧諸国ではエスペラント運動はとても盛んで、国家の庇護さえ受けていたという。しかし、遠い日本にいて、ルーマニアにはハンガリー系の人々のコミュニティーがあり、チャウシェスク政権末期に迫害されて、ハンガリーに押し戻されたという事実などは知ることもなかった。
1990年代のある日、ハンガリーのZさんという若い女性を我が家に迎えた。彼女は、後に結婚することになった日本人Fさんがハンガリーで知り合った女性で、二人ともエスぺランティストである。そのときにZさんから聞いた話は衝撃的だった。ルーマニアで生活していたのに、急に迫害されて逃げるしかなかった苦労話だった。私たちは、日本で新聞やテレビから得た情報でルーマニア革命を知ったようなつもりになっていたが、こんなこともあったのかと驚いたのだ。Zさんから聞かなかったら、ずっと知らないでいたかもしれない。エスペラントを介して、歴史の一端に触れることができたのだ。歴史をぐっと身近に感じられた瞬間だった。エスペラントがわかるからこそ聞けた貴重な話だった。
エスペラントを知らなくても、世界は動いていくし、わたしたちの生活もそれなりに成り立つ。しかし、エスペラントを知っていることで、自分の世界が広がるのは紛れもない事実だ。単にかじる程度ではもったいない。深く理解し合える結果得られる喜びや楽しみを後輩の方々には伝えていきたい。