VERDA GEMO 2023 printempo n-ro 3 その1 その2 その3 その4 その5 その6 Sanjo 1975年にイギリスから帰国後は、また東京で就職し、普通の生活をしていたが、翌年春たまたま朝日新聞で「エスペラント講習会」の文字を目にした。それは池袋エスペラント会の講習会案内だった。当時は都内各所にエスペラント会があり、それぞれが講習会を行っていた。会場が住まいから近かったことと、せっかく始めたエスペラントをもっとやりたいと思い、初日からではなかったが、参加を決めた。 当時の池袋エスペラント会には、「三羽ガラス」と言われた林健、森田健夫、梅田節子の3人に加え、若い人がたくさん集まり、とても活発に活動していた。ベトナム戦争をテーマにした早乙女勝元の「ベトナムのダーちゃん」のエスペラント訳本を出版し、かなり売れてもいた。毎週の例会は、入門講習クラスと中級者クラスに分かれ、私は以前に学習経験があるということで、中級者クラスに入った。gvidantoは森田さんだったと思う。教材は、今でもよく使われている”Paŝoj al plena posedo”とか読み物などで、けっこうまじめに勉強した。林さんは、よくエスペラント文学の話題に触れ、特にハンガリーの作家についていろいろな話を聞かせてくれた。彼は、何にも知らないわたしたちエスペラント初心者にとって知識の宝庫だった。自らもHans Jasikのペンネームで、エスペラント版ポルノ小説をたくさん書いたり、ちょっとユニークなおじさんだった。梅田さんは、すてきな声の持ち主で、エスペラントを上手に話した。こういう会の雰囲気が気に入って、いつの間にか私も池袋エスペラント会の一員になっていた。 もう一つ、その頃の池袋エスペラント会で特徴的だったことは、会員同士で結婚したカップルが3組もあったこと。その3組目がなんと私と尚志なのです!尚志は、若い頃にエスペラントをちょっとやったことはあるが、ほとんど覚えていないということで、1976年春の池袋の入門クラスに入り、その後会に入会。今では想像できないかもしれないが、当時は若い男女会員が何人もいて、ほんとに楽しかった。全国合宿も行われており、そこで仲良くなるカップルもたくさんいたので、esperanto=edzperantoなどといわれたくらい。私たちもそういう雰囲気に押されたのかな?いつの間にか結婚することになったのが1977年末のことだった。林健さんがお仲人役を引き受けてくれた。 結婚後1年は千葉市(検見川)に、その後は南千住に転居したが、池袋エスペラント会に通い続けた。そのころ入会してきたのが、当時早大生だった河元寛視さんと向後千春(早大教授)さん。彼らとはピクニックに行ったり、歌を歌ったり、学習したりと楽しい思い出がある。外国人エスぺランティストの例会への来訪も多かった。そのころは私も大分エスペラントがしゃべれるようになり、案内役をしたりお世話役をすることも多くなっていった。池袋エスペラント会には来訪しないが、東京に来る外国人エスぺランティストはけっこういて、南千住に移ってからは何人かをお泊めすることもあり、登録はしていなかったがpasporta servo的なことをよくやった。エスぺランティストもさまざまで、イスラエルの男性を上野のお花見に連れていったときの彼の視線は、まるでスパイのそれのように感じた。(映画の見過ぎ?) ユーゴスラビア(現クロアチア)の、私と同年代のZdravkaは、その後カナダ人エスぺランティストと結婚して、昨年のモントリオール世界大会ではLKKとして活躍していた。何十年もたってから、その人が元気で活躍するのを見られるのは狭いエスペラント界のお陰でもあり、うれしいことでもある。日本人エスぺランティストも来た。名古屋の三石清という人は、地元のテレビ番組「日雇い労働者の学者・三石清さん」として取り上げられたエスペラント活動の実践者で、「私の大学はエスペラントだった」との名言を残した。ランニングシャツ姿で、ハンガリーの詩人であり、ハンガリー革命における重要人物とされているペテーフィ・シャーンドルについて話してくれたのが印象に残っている。 (続く)
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長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その2
VERDA GEMO 2022 aŭtuno n-ro 2 その1 その2 その3 その4 その5 その6 Sanjo 短大時代に始めたエスペラントの学習は、社会人になって一旦途切れることになった。いろいろ事情があって、卒業後は福島で働こうと実家に戻ったため、エスペラントを続ける環境が残念ながらなかった。それでも、仙台エスペラント会に連絡をして、行ってみようかと思ったこともあったが、田舎の交通事情は悪く、少ない本数の列車(!)で往復3時間以上かけて出かける勇気はわかなかった。 その年の夏、上京して就職。当時は一流企業も中途採用が盛んで、職探しには困らなかった。私が就職したのは、東証一部上場(今では懐かしい名称になってしまったが)のけっこう有名な企業で、勤務地は銀座6丁目並木通りの支社!いわゆる「花のOL時代」(このことばも最早死語ではあるが)を約2年間人並みに満喫して、エスペラントはほとんど私の生活から消えていた。とはいえ、エスぺランティストの友人とは親しくしていて、この後の私の人生計画を立てるに際して、エスペラントと直接の関連はないが、大きなヒントを与えてもらった。その友人は、仕事で3年間ロンドンに駐在していて、私が英語をもっと勉強するために渡英したいという希望を持っていることを知っていた。そこで、現地で得た情報を私に伝えてくれたのだ。 英語の勉強に海外に行く、というと、現在では大学等への留学が普通だが、イギリスには世界中から英語を勉強したい若い、特に女性が選択できるシステムとして、オーペア制度というのがあった。今もあるらしいが、最近はワーキングホリデービザを利用したりするらしい。1970年代には、日本からもけっこうな数の女性がオーペアとして渡英していた。私は会社勤めをして貯金も少しあったので、すぐに決断した。幸いに友人がロンドンのイギリス人家庭を紹介してくれたので、事前に手紙のやりとりをして、いざ出発!とりあえず観光ビザで行ったが、空港の入管で私の受け入れ家庭の手紙を見せると、その場で1年有効のビザをもらえた。1974年11月のこと。 私を受け入れてくれたDavenport家には、3歳と6か月の赤ちゃんがいた。おまけに大きな、黒のラブラドールも。私の英語は、会社勤めでは使っていなかったので、渡英前に学習し直した程度だったが、どうにか日常生活は送れた。できるだけしゃべって、その家の主人が夕方持ち帰る新聞をいただいて読んだり、時には議論したり。当時は、イギリスは北アイルランドで対英テロ闘争を行っていたIRAのテロ事件が頻繁に起きており、私もロンドン中心部へ出かけて、交通規制にあったこともあった。オーペアというのは、受け入れ家庭にもよるが、こどものお世話をしたり、家事を少しやることで少額ではあるが報酬がもらえる。時間をやりくりして、英語学校にも通うことができ、ドイツ、スペイン、スイスなどから来ていたオーペアの人たちと友達にもなった。滞在中に、イギリス各地にも連れていってもらった。エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」の舞台になったヨークシャーの荒野は印象に残っている。 1年間だから、けっこういろいろな経験ができたし、とても充実した時期であったが、今残念に思っているのは、この間エスペラントとは全く関係がなかったこと。一度、ロンドンのエスペラントクラブを訪ねようかと思ったことがあったが、しなかった。イギリスには英語を勉強しに来たのだから、英語に集中しようと考えたわけだが・・・ もし、あのときエスペラントもやっていたら、私の人生は別のものになったかもしれない、と夢想することはある。ただ、英語が自由に使える状態で、各国から来た人々とも英語で話すことができる状態だったため、それ以上の共通語を必要としなかったのだろう。今となれば、もったいなかったなと後悔している。1975年11月の帰国後、仕事に英語を使うことが多くなったが、それでもエスペラントをすっかり止めたわけではなかった。 (続く)
長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その1
VERDA GEMO 2022 printempo n-ro 1 その1 その2 その3 その4 その5 その6 Sanjo 私がエスペラントと関わりを持ったのは1969年夏のこと。横浜にあった神奈川県立外語短期大学(数年前に廃校)で英語を専攻する1年生のときだった。英語会話の授業の講師は、県内にある米軍基地の将校の奥さんだったそうで、教職の経験があったのかどうか定かではない。私は、福島の田舎育ちの、英語大好き、ミーハーな女子だったので、横浜という都会で英語が勉強できることに満足していた。英会話の講師が、英語ネイティブであれば、その人がどういう人かは気にならなかった。 さて、その講師が出した夏休みの宿題が、世界共通語について、英文でレポートを書きなさい、というもの。世界共通語?英語に決まってる?そのとき、小学校6年の時に新聞で見た「きょうは何の日」のコラムで、エスペラントという世界共通語があるということを読んだ記憶が蘇った。おそらく、ザメンホフの誕生日12月15日の記事だったのだろう。さらにラッキーなことに、外語短大には毎月La Revuo Orientaが送られてきていて、それが毎号図書館を入ってすぐの書棚に置いてあった。というわけで、世界共通語としてエスペラントがあるじゃないか。なら、調べてレポートを書こう、ということで、JEIに電話をすると、横浜と横須賀のエスペラント会を紹介してくれた。レポートには、世界共通語として作られたエスペラントということばがある、英語だけが世界共通語ではない、とか書いて提出したのかもしれないが、もう覚えていない。とにかく、自分でエスペラントとはどういうものか確かめることにして、学習を始めた。当時の下宿先から通うのに便利な横須賀エスペラント会に入れてもらって、夕方アルバイト先から、横須賀共済病院の一部屋で行われていた例会に通い出した。 会には、お医者さん、古本屋さん、公務員、お寺の娘さんなど、いろいろな人がいて面白かったのだが、幸運だったのは、会で指導していたのが松葉菊延さんだったこと。松葉さんは、エスペラント界で有名な方で、本も何冊か書かれ、当時は難しかったソ連邦エストニアに有名なエスペラント詩人のHilda Drezenを訪ねる海外旅行をしたり。指導も厳しくて、ここで鍛えられたことは私にとってとてもよかった。基本的なことをおろそかにしないこと、とか、固有名詞の呼び方とか。会では厳しく指導していた松葉さんが、会が終わってから夜向かう先は、雑居ビルの階段を地下へ降りた先のキャバレー。遊ぶためではなく、そこで経理の仕事をしていたとか。わたしたちは、いつも顔を見合わせて見送っていた。 短大卒業まで、わたしは横須賀エス会で学習しながら、首都圏の若いエスぺランティストが企画したハイキングに参加したこともあった。桜木町で行われていた横浜エスペラント会(当時)に行ってみたこともある。 この後の私のエスペラント人生は、一旦途切れる。 (続く)