VERDA GEMO 2022 aŭtuno n-ro 2
短大時代に始めたエスペラントの学習は、社会人になって一旦途切れることになった。いろいろ事情があって、卒業後は福島で働こうと実家に戻ったため、エスペラントを続ける環境が残念ながらなかった。それでも、仙台エスペラント会に連絡をして、行ってみようかと思ったこともあったが、田舎の交通事情は悪く、少ない本数の列車(!)で往復3時間以上かけて出かける勇気はわかなかった。
その年の夏、上京して就職。当時は一流企業も中途採用が盛んで、職探しには困らなかった。私が就職したのは、東証一部上場(今では懐かしい名称になってしまったが)のけっこう有名な企業で、勤務地は銀座6丁目並木通りの支社!いわゆる「花のOL時代」(このことばも最早死語ではあるが)を約2年間人並みに満喫して、エスペラントはほとんど私の生活から消えていた。とはいえ、エスぺランティストの友人とは親しくしていて、この後の私の人生計画を立てるに際して、エスペラントと直接の関連はないが、大きなヒントを与えてもらった。その友人は、仕事で3年間ロンドンに駐在していて、私が英語をもっと勉強するために渡英したいという希望を持っていることを知っていた。そこで、現地で得た情報を私に伝えてくれたのだ。
英語の勉強に海外に行く、というと、現在では大学等への留学が普通だが、イギリスには世界中から英語を勉強したい若い、特に女性が選択できるシステムとして、オーペア制度というのがあった。今もあるらしいが、最近はワーキングホリデービザを利用したりするらしい。1970年代には、日本からもけっこうな数の女性がオーペアとして渡英していた。私は会社勤めをして貯金も少しあったので、すぐに決断した。幸いに友人がロンドンのイギリス人家庭を紹介してくれたので、事前に手紙のやりとりをして、いざ出発!とりあえず観光ビザで行ったが、空港の入管で私の受け入れ家庭の手紙を見せると、その場で1年有効のビザをもらえた。1974年11月のこと。
私を受け入れてくれたDavenport家には、3歳と6か月の赤ちゃんがいた。おまけに大きな、黒のラブラドールも。私の英語は、会社勤めでは使っていなかったので、渡英前に学習し直した程度だったが、どうにか日常生活は送れた。できるだけしゃべって、その家の主人が夕方持ち帰る新聞をいただいて読んだり、時には議論したり。当時は、イギリスは北アイルランドで対英テロ闘争を行っていたIRAのテロ事件が頻繁に起きており、私もロンドン中心部へ出かけて、交通規制にあったこともあった。オーペアというのは、受け入れ家庭にもよるが、こどものお世話をしたり、家事を少しやることで少額ではあるが報酬がもらえる。時間をやりくりして、英語学校にも通うことができ、ドイツ、スペイン、スイスなどから来ていたオーペアの人たちと友達にもなった。滞在中に、イギリス各地にも連れていってもらった。エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」の舞台になったヨークシャーの荒野は印象に残っている。
1年間だから、けっこういろいろな経験ができたし、とても充実した時期であったが、今残念に思っているのは、この間エスペラントとは全く関係がなかったこと。一度、ロンドンのエスペラントクラブを訪ねようかと思ったことがあったが、しなかった。イギリスには英語を勉強しに来たのだから、英語に集中しようと考えたわけだが・・・ もし、あのときエスペラントもやっていたら、私の人生は別のものになったかもしれない、と夢想することはある。ただ、英語が自由に使える状態で、各国から来た人々とも英語で話すことができる状態だったため、それ以上の共通語を必要としなかったのだろう。今となれば、もったいなかったなと後悔している。1975年11月の帰国後、仕事に英語を使うことが多くなったが、それでもエスペラントをすっかり止めたわけではなかった。